近年、サッカー界に影響をもたらしているホリエモンこと堀江貴文氏。
自身の著書で、日本の教育についても問題提起をしているのですが、
サッカーの育成現場における問題の本質にせまる一文が書かれていたのでご紹介させていただきたい。
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サッカーに没頭するという体験がもたらす可能性
「子どもがサッカーに夢中で、サッカーの強い高校に行きたいと言うんです。でもJリーガーになれる人はごく一部だし、できれば普通の進学校に進んで勉強してほしくて……」
この手の意見は耳にタコができるほど聞いてきたが、率直に言うと、僕には意味がわからないのだ。
「サッカー選手になれる確率は低いのだから、サッカーにハマるのは無駄だ」。
これは裏を返せば、「サッカーをやるからには、サッカー選手にならなければならない」という謎の強迫観念にとらわれているということだ。
サッカーという入り口は、サッカー選手という出口にしかつながっていない…… とても 窮屈な考え方だ。
まさに、用意されたレール式の発想である。
いちいち解説するのもおかしな話だが、「サッカーに没頭する」という体験がもたらす可能性は、「プロのサッカー選手になる」ことだけじゃない。
もしかしたら彼は、途中でサッカーグッズの開発に興味を持つかもしれない。
サッカー漫画にハマって漫画家を目指し始めるかもしれない。
サッカー部でできた友達と、何か関係ない仕事を始めるかもしれない。
10年後にはサッカーにまつわるまったく新しいビッグビジネスが生まれており、彼のスキルがたまたまそれに生きるかもしれない。
こんな想像は、いくらしてもきりがない。まさに無限大だ。こうした可能性を、すべて「ゼロだ」と却下できる人はいないはずだ。
同時に、どれか一つの可能性だけを取り上げて、それを理由にやるやらないの選択を下すのも馬鹿馬鹿しい。やりたいならやればいい。
それだけだ。 現実はそうなのに、「サッカー選手になれる確率は低いから、真面目に勉強しなさい」という、論理的に破綻した正義を平気で振りかざすのが、学校教育なのだ。
サッカー選手になるためにサッカーをやらせる必要はない
私はサッカー選手になるためにサッカーをやらせるというカタイ発想をどうにかしたい。
サッカーに没頭する環境を作るのが大人の役目であり、それはサッカー選手にするためではなく、サッカーに関わるあらゆる物事に対する好奇心を育むことなのです。
「うちはサッカー選手にするためのクラブです!」と強いメッセージを掲げるクラブはたくさんあるけれど、私はそんなクラブよりもサッカーの魅力をしっかりと伝えることができるクラブがもっと増えてほしいと思う。
運動神経が良い子だけが活躍できるのではなく、センスがある子だけが活躍できるのでもなく、足が遅い子も、体が弱い子も、サッカーに携わる方法はいくらでもある。
プレーする機会を与えるのは当然のこととして、将来トレーナーを志すこともできるし、マネジメントを学び、監督を志すこともできる。
あるいはSNSを使って、広報活動を担うこともできるかもしれない。
あとはクラブを運営する大人の器量次第なのだと思う。
サッカーの本質を追求する旅はつづく…