「競争闘争理論」に興味深いことが書かれていた。
日本で「体罰」や「理不尽な練習」が後を絶たない理由の一つに、私はこの「自信」との関係があると考えている。日本人が言じている「やればやるほど自信が持てる」という思考態度は、過度な訓練や使い物にならない精神論を助長する。体罰は論外として、「やればやるほど」という態度で訓練を繰り返すことは、「競争」ゲームにおいて通用するものであっても、少なくともサッカーのような団体「闘争」ゲームにおいては、一切通用しないことに、本来指導者は気が付かなければならない。
だが、もしも体罰まがいなことを行っている指導者に、科学的見地をもとに、あるいは何らかのテクノロジーを使って、もしくは世界の知見を用いて「悪影響を与えている」と説明したところで、おそらくそれをやめることはないだろう。「自信を持つため」という測ることのできない拠り所があるからだ。
しかしサッカーにおいて、それらの自信は嘘である。私は、一切体罰や(日本的な)理不尽な訓練をしてこなかった外国人プレイヤーが、本物の自信を身に纏ってピッチに立っていることを知っている。大きな舞台、あるいは大切な局面において自信を持つには、大きな舞台で、大切な局面で成功体験を積み上げていくしかない。そのために、「挑戦」や「失敗」がある。
日本サッカーの「極端なオフの少なさ」や「量を追求する理不尽な練習」は、日本人が「競争的思考態度」でサッカーというゲームを捉えている一つの証拠だと言えるだろう。
高校サッカー部時代、休みなんてほぼなかった。オーバーワークで疲労骨折、足を引きずりながら練習をし、腕を骨折しても試合をし続けた。
思い返すと強制半分、強迫観念半分だった。
試合に勝ち続けるにはどこよりも練習量が大事、圧倒的な体力とテクニックを身につけるには練習量が必要だと刷り込まれ、それを自分たちも信じていた。
結果、全国大会出場は叶わず、ボロボロの体だけが残った。
椎間板ヘルニア、手術、そして大学サッカーではあれだけの練習をした自分よりも優れた選手がたくさんいた。
もう20年以上前の話。
いまの若い子たちはどうだろう。最新のスポーツ科学を取り入れ、量を追求する理不尽な練習はなくなり、適度なオフで向上したのだろうか。
答えはイエスとノーがあると思うけれど、体感としてはノーな環境が相変わらず多い。
なぜなら河内氏の著書にあるように、「自信」を得る手段が質<量に相変わらず傾倒しているからだと思う。
そしてこれはサッカーというものの特性を理解していない大人が育成文脈のサッカーを扱っているからに他ならないと思う。
選手個々の成長フェーズを捉えながら、適切なタイミングで機会を与え、適切なコーチングをして能力を引き上げ、自信を積み上げていく、このコーチングの本質を捉えていない指導者が多い。
言うのは簡単で実践するのは難しい。人間を扱いサッカーを扱う行為は、人間も社会もサッカーの本質も捉えなければ前へ進めることは困難だから。
しかしながら、この難題に向き合うための準備は十分にできているかというとそうではないように感じる。
多様性の理解、社会の変遷、人間の心理、サッカーの本質、これらはどこまでも深い。
これらを扱う者として、我々は適切な態度で正しく向き合えているのかを問い直さないといけないように思う。
難しく考えすぎていると言われる。そうかもしれない。しかしながら、もう少し考えないといけないようにも思う。
まだ読まれていない方は、読んでほしいと思う。サッカーとはなにか?という問いが少しクリアになると思う。