大人になってから学ぶサッカーの本質とは

日本にいながら外国人リーグでプレーする私の目から見るサッカーの本質とは… 元サッカー選手、元サッカーコーチ、中南米放浪サッカー経験者として好き勝手語らせて頂きやす

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ホリエモンが語る教育問題の本質 〜古い価値観を捨てることなしに教育は変わらない〜

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ホリエモンこと堀江貴文さんの「すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論」がとても共感する内容だったので一部を抜粋しながらご紹介したい。

 

堀江さんの言葉は過激な表現が多く含まれるけれども、いつも本質的であると感じています。

常識に捉われず、問題の本質を常に見ることができる方だからこそ、そう感じることができるのでしょう。

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本の学校は常識を押し付ける場所になっている

知識とは、原則として「ファクト」を取り扱うものだ。主観の一切入り込まない事実(ファクト)にもとづく知。それが知識である。 一方、常識とは「解釈」である。主観の入りまくった、その時代、その国、その組織の中でしか通用しない決まりごと。それが常識である。日本でよく見られる儒教的な道徳規範などは、まさに「常識」の最たる例だ。

つまり、ただそこに存在するのが知識であり、誰かの手によってつくられるのが常識だと考えればいいだろう。 それでは、なぜ学校は恣意的な常識を人に押し付けようとするのか? その常識によってどんな人間を育てようとしているのか? 一言でいえば、従順な家畜である。 社会は、とくに旧来型の企業では、従順な働き手を求めている。したがってその養成段階である学校で子どもたちは道徳規範を叩きこまれ、学力という形で「従順さ」に点数がつけられていく。 受験のため、卒業のため、就職のため、どんな理不尽な勉強にも耐え、ひたすら情報処理能力を磨いていく。

そんな従順さの指標が、受験社会における「学力」なのだ…

 学校で優秀であるということはどういうことか

企業からすると高学歴の人間は、理不尽な作業への耐性が強いという判断になる。いまだ体育会系の学生へのニーズが高いのも、要するに「従順さ」と「理不尽への耐性」が強いとみなされているからだ。

今になって思えば、僕が生意気だったのは、落ちこぼれだったからでも、ドロップアウトしたからでもない。ただ、大人たちが押し付けるつまらない常識に従わなかっただけなのだ。

 学校は将来使いやすい労働者の教育機関

「使いやすい労働者」を大量生産する工場 学校は、そこに通う人間を、とにかく「規格」どおりに仕上げようとする。建前上は「個性を大切にしよう」「のびのびと育ってほしい」などと言うものの、その裏にはいつも「ただし常識の範囲内で」という本音が潜んでいるのだ。 一般的に日本の工業製品は 歩留まり(全生産量に対する、不良品でない製品の割合)が高いとされている。 徹底したマニュアル化、オートメーション化、何重にも及ぶ検品体制の整備などによって歩留まりの高さを実現し、顧客ニーズに応えてきた。 学校も同じだ。教師は子どもたちに同じテキストを暗記させ、同じ数学の問題を解かせ、同じルールで採点していく。赤点を取ったり、問題行動を起こしたりした子どもは、どうにか「規格内」になるよう尻を叩く。 

学校で押し付けられるのは、「工場=会社」の予行演習のようなことばかりだ。たとえば時間割の厳守、全体行動、一方的な評価、ボス=教師の言うことへの服従……。 そして今の子どもたちも、雇用者にとって管理が楽な「望ましい労働者」としての規格からはみ出ないよう、「常識」をせっせと教え込まれている…

 教育問題の本質とは

問題の本質は、国家が人間の規格=「常識」という鋳型を作り、そこに人間を無理やり押し込めようとすることにある。その教育システムそのものの誤りに気づいていないから、今でも学校は恣意的な常識の洗脳機関なのだ。

はっきり言おう。もう「学校」は必要ない。 子どもたちを1箇所に集め、同じ時間、同じカリキュラムで、同じ教科書によって学ばせる。

現在の「学校」が、こうした旧来の形をとどめていること自体が、軍国主義教育時代の名残でしかないのである。

 堀江さんが言うように、教育問題の本質は旧来型の制度がまかり通っていることだと思います。これは大人の価値観が古いままだということです。

少年サッカーの現場を長年見ていても、軍隊式の根性を植え付ける指導が目にすることが多いです。子供の成長を育むには根性をつけるという理論が未だにまかり通っている。多くのサッカーチームでは試合に負ければ未だに罰走させるし、理不尽な練習が課される。指導=強制・矯正、という古い価値観をアップデートしなければなりません。

時代は変わり、価値観が変化しています。

当然、教育の在り方も変化する必要があるのです。

そこに気が付けない大人はこれから一気に淘汰されていくのだと思います。

 

「日本に住む日本人である」ことよりも、「インターネットがつながっていること」「アマゾンの配達が届く場所であること」「スマホの充電ができること」の方が、日々の生存戦略に関わってくる。

 これは、「国の権威」よりも「テクノロジーの利便性」の方が、人々の生活において大きな存在感を占めるようになってきたことを示している。

 あるいは、こんな想像をしてみてほしい。政府から「国民の暮らしを豊かにします」と言われるのと、グーグルやフェイスブックに「あなたたちの暮らしを劇的に便利にするアプリを開発中です」と言われるのと、どっちに期待してしまうだろう? 「国家は消滅しつつある」というのは、実はこういうことなのだ。

 

これからは受け身では生きていけない。

だからこそ主体性を育まなければならない。

自分の人生の舵を握るのは自分しかいないのだから。

サッカーも同様なのです。

サッカーはピッチで常に主体的であることが求められるのです。

自分で判断し、決断することの連続なのです。

ピッチに立ったら自分を信じるしかない。

サッカーの本質を伝えることは人生の本質を伝えることなのです。

 

サッカーの本質を追求する旅はつづく…

 

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