鎌倉インターナショナル監督の河内一馬氏の著書「競争闘争理論」の一部を抜粋してご紹介させていただきます。
練習量が異常な日本の子供たち
日本でサッカーをする子供たちに与えられている練習量は、1年間における日数の観点から見ても、1日における時間の観点から見ても、異常である。これは、個人が「やりたいからやっている」と言える場合には良い方向へ傾くが、残念ながらそうではなく、多くの子供たちはチームの活動として拘束される時間が圧倒的に多い。アルゼンチンという世界トップの国で見た育成年代のサッカーには、大人と同じように必ず長期的なオフが存在していたし、サッカー以外のことをする時間や、家族・友人と過ごす時間を大切にしていた。子供の頃から人生の全てをサッカーに注がなければならない状況(そのくせトーナメント形式の大会で突如ゲームの機会を奪われる)や、異常な活動量を求められることによって、慢性的な傷害を抱えてしまうことは、極めて害である。
私たち日本人(日本の社会で教育を受けてきた者)にとって、努力とはすなわち量である。こうした自らに植え付けられた価値観を大人(指導者)が子供(選手)に課すのも、自分のイデオロギーを守るためであることを考えれば、自然な行為である。自分と選手たちを”納得させるため”に量を求め、やがてそれが過度になる。しかし、サッカーにおいて、「これだけやったのだから…」と自己を納得させることによる自信は、いとも簡単に崩れ去る。
私たちはサッカーの練習に信じられない時間を使ってきた
私自身の話になりますが、中学、高校のサッカー部時代、授業以外の時間のほとんどをサッカーの練習に費やしてきました。あれだけ走って、あれだけ練習したのに、自分達より明らかに練習していないチームに負けることもあったし、プロになれた選手もいない。
本当に上手くなったのだろうか、成長したのだろうか、そんな不安を払拭してくれるのは練習量だった。
適切な目標設定をしてくれるコーチも、その時の自分達に最適なトレーニングをしてくれたコーチもいなかった。
ただ、自分達を信じて、顧問を、コーチを信じて、ひたすら練習を重ねた。勉強も遊びもほとんどしなかった。家族との時間もほとんど記憶にない。
それほどサッカーばかりしていた。でも、サッカー選手にはなれなかった。
いまになってようやくわかる。サッカーを知らなさすぎたし、自分達の成長フェーズに合わせたトレーニングができていなかったから、結果がでなかったのだと。
サッカー以外の多くを犠牲にしてでも、練習しすぎていたと。
この結果を振り返らず、自分達が経てきた経験を、子供たちにやらせるループが発生している。今起こっている育成年代の問題の多くがこれだと思う。
サッカー以外のことをやってこなかった
河内氏のいう通りなのですが、私も中南米とスペインのサッカーを体感して感じるのは、彼らはサッカーがすべてではないということ。家族との時間も友人との時間も大切にする。サッカーが全てかのように振る舞うけれど、サッカーよりも大切なことをちゃんと理解している。
人生において大切にしなければならないことを、私たち日本人よりもよく知っているようにも感じた。
リラックスして、もっと自然体で楽しもうよと何度も言われた。
私たちはサッカー以外のことを平気で犠牲にしてきました。
それが当たり前のことだと思っていたし、思わされてきました。
でも、そろそろ価値観をアップデートしていかないといけないと思います。
サッカーを楽しむために、人生を楽しむために。
サッカーの本質を追求する旅はつづく…