Photo by kenji onose
時代の変化と共に生き方が変わってきている
時代とともに、働き方が変わり、食生活も変わり、人の生き方そのものが変化している。そして当然のことながら価値観も変化している。
私は、親世代の価値観が昔のまま止まっていると感じている。
今の時代に数十年前のやり方を取り入れても上手くいかない場合が多い。
とはいえ、これをやれば上手くいくという正解もないのだけれど、時代と共にやり方は変化するはずなのだ。
しかし、周りと同じように学校を卒業して就職しなければいけないだとか、正社員になることが正しいだとか、そのような昔の価値観を未だに押しつけてくる大人は多い。
働き方など無数にあるし、情報も気軽に得ることができる時代なのだ。昔のようにやっていたら確実に仕事などなくなるし、新しい価値を生み出すことは難しい。そういうことを理解できない大人は実に多い。
子どもに選ばせれば良い。責任を負わせれば良い。ダメなら自分でどうにかさせれば良いのだ。
さて、今回は「子どもの自立」をテーマに興味深い文章をご紹介しますので、一緒に考えていければと思います。
子どもは親のクローンではない
よく、お祖母さんと、子育てで意見が合わずにけんかになる、といったことを聞きます。これは当たり前の話で、文化が変わり、社会が変われば、子育てのハウツーも変化しなかったらおかしいんです。
ところが、「そうなんだ。自分たちの考えで良かったんだ。自信を持とう」と胸をなで下す人に限って、自分と親の「時代の差」は認めても、自分と子どもの「時代の差」を認めないんです。「結果的に自分のやり方でよかった」というのなら結構ですが、もしかして、それは「自分たちの時代、自分たちの価値観」をそのまま子どもに当てはめて、押し付けることになっていないでしょうか。例えば、前述したテレビゲームですが、「自分たちの子どものころは、あんなことはしなかった。外で、もっとわんぱくに遊んでいた。家に閉じこもって、あんなネクラなことをするなんて」という、自分たちとの比較の上で、「よくないことだ」と決めつける人が多いんです。
正直言いますと、私も自分の子どもたちのゲーム機をこっそり借りて、いじったことがあるんです。「こんな面白いものはない」、が感想でした。もし私の子ども時代にこんなものがあれば、間違いなく夢中になったと確信します。私がテレビゲームをやらなかった、我慢していたのではなく、存在しなかったからで、世のお父さんやお母さんだって、同じではないかと思うんです。それを時代や文化の差、と見極めることができず、子どもたちを自分たちのクローンと見なし、その枠の中で「いい子」に育てようとするから、子どもたちも自立できなくなるのではないかと。つまり、過保護とは、そういうことなんです。
自分の子どもではあるし、一緒に同じ時代を生きて、一緒に生活する。けれど全部が同じではない。同じ部分、重なる時代もあるが、彼らの生きる七十年、八十年は、自分たちのそれとは一致しない。彼らには、彼らの生き方、世の中があるのだということだけははっきり認識すべきだと思います。それを一から百まで、親の価値観、その時代の大人の感覚で押し切ろうとするから、無理が出る。ひずみが出る。親は自信をなくし、子どもは何が本当に大切なのかを、見失い始めていく。それが「過保護」ということなのだと、私は思います。
【参考書籍:セルジオ越後:子育つ論 】
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セルジオ越後さんは辛口批評で有名なサッカー解説者です。
多くのファンがいると同時に、過激な発言によりアンチも少なくない方ですが私はセルジオさんをリスペクトしています。
サッカーの本質を知り、尚且つ日本サッカーのことを本気で考えている数少ない方なのではないでしょうか。
ご紹介した文章はサッカーのことは一切書いてませんが、子どもがサッカーをする上で大事なのは、まず大人が変わらなきゃいけませんよとセルジオさんは問題を指摘しているのです。
子どもたちは私たちが生きている時代とはまた違う時代を生きることになるのです。大切なのは子どもを自立させること、主体的に生きることができるようにさせることなのです。自分の足でしっかりと生きていけるように。
サッカーの本質を追求する旅はつづく…