サッカーの神様は”ありのままの人間”に微笑む
サッカーはどんなに性格が良くても、どんなにやさしくても、どんなに頭が良くても、どんなに馬鹿でも、どんなに不良でも、どんなに非常識でも、関係ない。
サッカーで問われるのは自分を表現するという力である。そしてサッカーの本質、楽しみ、喜びを享受するためには自分を解放することがなにより大切なのだと思う。
自己表現が出発点である。
リスペクトを欠く選手に神様は微笑まない
しかし、勘違いしてはいけない。ピッチで自分のすべてを解放するためにはリスペクトがなければならない。リスペクトできない人間にはサッカーの神様は微笑まない。相手をリスペクトし、ピッチに立つことを許してくれたあらゆるものに感謝をしなければならない。多くの日本人は実はこのリスペクトを欠いている。
形式だけの「気をつけ!れい!」はいらない。感謝という本質が抜けている。なぜピッチに向かってリスペクトが必要なのか考える選手が少ない。リスペクトなしに勝利はありえないのだ。
Vamos con todo!!
バモス コン トド! これはスペイン語で「全部出すぞ!」「自分を解放しろ!」というような表現になるのだが、私の所属する南米のチームでは試合中に頻繁にピッチに響く言葉だ。どんなに上手くたってピッチで自分の気持ちを表現できない選手は認めてもらえない。これはサッカーの強い国、とりわけ南米では顕著である。みんながみんな自分を精一杯出すから当然ぶつかる。ケンカもしょっちゅうある。しかし、そうやってぶつかるのが当たり前で、言いたいことが言えなかったり、プレーで表現できないとピッチで存在することはできない。
自分を解放する場所がないから自分の出し方がわからない
この日本に自分を解放できる場所がどれだけあるだろうか。
学校に行っても会社に行ってもそんな場所はない。サッカーチームでそういう場所があるのだろうか。これもきっと日本には少ない。個性が解放することを許せる大人が少ないのではないかと思う。こういういつも自分を制御しなければならない社会で育つと、自分を解放する方法がわからないまま大人になる。
以前、中田英寿はこう言った。
日本人は自分の能力を100%発揮する術を知らない
ネイマールはこう言った。
「日本代表は必死さが足りなかった。僕らブラジルでも泥臭く攻め続けるのに格好を気にしているように見えた」
サッカーで自分を表現することは喜びである。
自分を解放すること!
もっと好きに生きなよ。感じる心がもったいないじゃないか。
— KEI 創作の9月 (@Keivivito) August 6, 2015
サッカーの本質を追求する旅はつづく…