ピッチの上で自由になりたい
きっと誰もがそう願い、もがいている。
どうすれば自由になれるだろう。
私たちはいつも何か答えを探して歩いている。
しかし、答えなんて見つからない。
なぜなら私たちが探している答えは地球上のどこかに存在するものではないからだ。
答えは作るもの。クリエイトするもの。創造するものだ。
自分は自分で作っていくしかない。
自由は自分で作っていくしかない。
自由を奪うもの
私たちは学校に行くと、定められた答えの出し方を教わる。
ルールを教わる。みんなと同じように振舞うことが正しいと教わる。
そして他人と違うことをすると恥ずかしいみっともないことだと学ぶ。
先生や指導者も同じだ。規律を乱してはいけない。秩序を乱してはいけない。と徹底的に管理することを学ぶ。
日本が安全で治安も安定しているのはみんなが規律や秩序を大事にしているからだ。
しかし、それは組織の為の個がベースにある社会。個性を殺さなければ組織、つまりチーム内で生きることはできないことを意味する。個性を認めたらまるで秩序が治安が崩壊するとでも言わんばかりの圧力がかかる。これは何かが狂っていると私は思う。個人がベースにないと”生きた”組織は生まれないからだ。
チームの仲間一人一人の個性が存分に表現できた結果、チームというのは”生きた運動体”になる。
不自由と戦う自由な心を大事にしたい
誰かとの比較を止めた瞬間に自由になる。これは真実だ。そして本当にサッカーを楽しむには自分だけの表現を追求することだ。自分にしかできないプレーこそが個性であり楽しみであり美しさである。
他人と違う自分を誇れるということ
”他人と違うことを良しとしない日本”と”他人と違うことは誇らしい”という価値観の違いなんじゃないかと思う。
他人と違う自分を誇るという当たり前のことが当たり前になった時、日本のサッカーが、いや日本という国が変わるのかもしれない。
唯一無二の表現!それこそが個性
上手い選手は五万といる。もはやその辺の子供が私より上手いなんてことがザラにある時代だと思う。極論を言ってしまえば”上手い”選手ではなく常軌を逸したモノが観たいと思う。それはきっと強烈な個性であって、他の誰かが真似することのできない表現であって、その人にしかできない表現になるのだと思う
生きる為にこそ比較から自由にならねばならない
日本という国は自殺者が毎年3万人以上もいて、うつ病になる人が毎年10万人を超えるという以上な社会である。こんな社会に適応する為に必死に努力をしているわけだ。
知らないうちに個性は殺される。周りに流されているといつのまにか自分は消えて無くなる。ではどうすればいいか?
常識を疑い、自分の頭で考え、自分で判断し、行動し、結果を出す。その連続しかない。
サッカーは自由を表現する遊びである
サッカーは最高の遊びであり、ボール一つで自由を獲得する夢である
私が感じる美しさは”あるがままの人間の姿”であり、”生きている様”なんだと思った。
サッカーは人々に生きる力を与えてくれる。人間の本質を思い出させてくれる。あるがままの自分を晒け出すことができる
サッカーの本質を追求する旅はつづく…