なんとかするより『なんとかなる』のが人生だ。自分だけの力じゃない、無限の網の目の中で『なるようになる』のが人生だと思う。だから、困ったことが起きても、別に困らなくてもいいのだと思う。自分を閉ざす必要も、後悔する必要もない。肩の力を抜いて、安心して、身を委ねていればいいのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2018年9月2日
私は捉われていない自由な人に惹かれる。
きっと現代社会に適応していたら、こんなに本質的なことは言えないのだと思う。
坂爪さんは社会に無理に適応すると、心が病む可能性があると言う。
日本には大量のうつ病患者、自殺者がいる。
これは日本独特の同調圧力や時代の変化に置いていかれた教育、労働の価値観が起因しているように思う。
自殺者は毎年減少しているものの、いまだに3万人近い
スポンサードリンク
社会に適応しようとすると心を病み、自殺を考える人がこれだけいても不思議ではないなと思う。
私自身も社会不適応者だと思っていて、生きにくさを感じることがあるからだ。
明らかに周囲のみんなと感覚が違うし、多くの人ができることができないことがある。
周囲に何かを期待されることをやることが苦手だ。
自分の意志でやりたいことをやることはできても、誰かに期待をされてやらねばならなくなってしまう状況は極力避けたい。
自分を振り返ってみると、そんな人間がこの社会で生きていて、疲弊するのは無理もないなと思う。
でも、私と同じように感じている人間はきっと少なくないとも思う。
それが救いでもあるのだけど。
そんなことを考えながら、私は思う。
社会に適応するのではなく自分自身に適応する必要があるのだと。
自分にとっての幸せってなんだろう?
そんなことを考えているときに、また坂爪さんの言葉が刺さった。
人間である前に、我々は動物である。野営をしているとわかる。それは「生きることが、生きがいになる」ということだ。ただ生きる。ただお湯を沸かす。ただテントを張る。ただ星空を見る。ただ寝袋で寝る。ただ生きる。それだけのことが、どうしようもなく嬉しくて、どうしようもなく楽しいのだ。
生きることが、生きがいになる。 - いばや通信
私に深く内省する機会を与えてくれた文章だ。
幸せって何?などと考えている自分がおかしいのかもしれないと思った。
当たり前の日常を愛することはできているのだろうか?
私はいまどこへ向かっているのか。
本当はどこへいきたいのか。
なぜ、不安なのか。
なぜ、疲弊しているのか。
私は今一度、自分と深く向き合う時間を作らねばと思った。
なぜ、サッカーの本質とは?というテーマなのにこんなことを書くのかを説明しておきたい。
私はサッカーの本質を知ることで、よりサッカーが好きになる人を増やしたいと思っています。
サッカーは人の本質を写します。
サッカーをプレーすることは自分をさらけ出すということです。
自分をさらけ出すことで、人と深く繋がることができるんです。
サッカーは人生を楽しむための一つの要素。
そして、サッカーはクリエイティブなゲーム。
人生と同じなんです。
自分で考えること、想像することが求められる。
だからこそ、人生においても、私は周囲に流されず、自分と向き合い、答えを出すことを追求していきたいし、発信していきたいと思うのです。
サッカーの本質を追求する旅はつづく…