人は、自分でないものの存在を気遣っているときにこそ、本当に幸福なのではないか。人を出し抜く賢さや、高いところから見晴らす正しさからは、喜びを汲み出すことができない。
自己の偽善性も、他者の偽善性も、まずは認めるところから始めたい。例え絶対的な正しさが手許になくても、すべてを見晴らす視点がどこにもなくても、他者とじかに触れ合い、相互に気遣う営みを通して、僕たちはいまより少しでも互いをゆるし合えるように、生まれ変わっていくことができる。
サッカーで子どもを鍛えるという発想をやめることから
よくサッカーを通じて鍛える、サッカーを通じて○○させる…という大人を見かける。
私は、子どもたちにサッカーが上手くなってほしいと思う。でも上手くさせてやるなどとは思わない。上手くなったらサッカーがもっと楽しくなるから、上手くなるためのサポートをしようと思う。サッカーを通じて強くなってほしいと思う。でも強くさせようとは思わない。なぜなら強くさせようと大人がスイッチを入れた瞬間に失ってしまうことがあるから。
子どもたちは、一人ひとり、感じ方も考え方も性格も成長度合いも違う。その目に見えにくい差異を見ようとしない大人を信じることができない。
サッカーは一人でできない
人間は社会性のある生き物である。サッカーは社会性のある人間がプレーする。つまり一人ではできない。社会の中で人間が生きるように、サッカーも人との関わりの中でプレーするもの。
どんなにドリブルが上手くても、社会性がなければサッカーにならない。
どんなにスピードがあり、強力なシュートを持っていても、社会性がなければサッカーにならない。
そのドリブルも、仲間がいなければ生かされない。
そのシュートも、仲間のパスやサポートがなければゴールすることは難しい。
生かし合うこと。その過程をいかに育むかが私たちには問われている。
どんなプロセスで、どんなコンセプトで、どんなコミュニケーションで。
私たちは何者なのだろう。何のためにサッカーをしているのだろう。そんな根源的な問いからみんなでつくりあげていくことが大切なのかもしれない。
一人にしてはいけない。一人でプレーしている人間に、サッカーを伝えなければならない。サッカーはコミュニケーションであると。
私も、あなたもボールでつながることができる。
サッカーは言語である。人と人を繋ぐ。ことばを超える。国境を越える。
サッカーをデザインしていくこと。私たちはいつだってサッカーを捉えなおすことができる。リ・デザインすることができる。
サッカーはなんのために生まれたのだろう。なぜこんなにも人を熱狂させるのだろう。
その根源的な魅力を言語化することは難しい。でも、感じることはできる。