三浦知良選手の著書「カズのまま死にたい」より、一部を抜粋してご紹介させていただきます。
子供に刻まれる印象
「ドリブルで全員抜いて、シュートしろ」。小学生のころそう教わった。失敗をとがめられもしなかった。「取られるまでドリブルしていいぞ」と。パスに逃げたときだけ怒られた。
いま小中学生の練習をのぞけば、僕らJリーガーとあまり変わらない指示を受けている。ディフェンスで絞れ。ギャップで受けろ。くさびを入れろ。僕の少年時代はそんな用語、耳にしたこともない。「ドリブル」しか思い出せません。
子どもはもう少し自由でいいかもと思う半面、欧州では子どもの頃から戦術眼を植え付けられることで、その通りに動けるようになるとも聞く。どちらがいいのかは分からない。
リベリーノの足技、木村和司さんのドリブルをこの目で目撃したときの衝撃はどんな指導より雄弁だった。サッカーでは細かい部分も大事だが、単純なものは好かれ、分かりやすいものは身につき、マネしたくなるものは広まる。プロのプレーに接することが子どもには一番の指導かも。
子供時代の一番の指導者は誰だろう?
マラドーナの栄光の10番をはじめて見たときの衝撃。
ボールタッチ、リフティングの感覚。
トヨタカップでリケルメのプレーをはじめて見たときの衝撃。直後、夜誰もいない公園にボールを持って駆け出すほどの衝動。
子供時代、正直彼らほど自分に影響を与えた指導者はいない。
でも、彼らの魅力を教えてくれた指導者はいた。
そんな経験があるから、私はジュニア年代こそ指導者がフットボールについて細かく教えることはないと思っているのかもしれない。教えすぎてしまうと僕らが子供時代に体感した衝動と出会えなくなってしまうから。
カズさんの言うように、一流選手のプレーを目の当たりにしたときの感情はどんな指導よりも雄弁だと思う。
そんなシーンとどう出会うかも大切だったりする。
失われてしまったサッカーがもたらす感動との出会い方
いま、いつでもスマホでプレー動画が見えてしまう。
そんな手軽さが、サッカーの魅力を奪っていないだろうか。アルゼンチンからどんなサッカーをする選手が来日してプレーを魅せてくれるのか、ワクワクする時間もなくなってしまった。大人が子供に動画をぽんと送れば見れてしまう時代。
子どもたちは溢れる動画情報という前提の中で、感動するプレーとの一期一会はあるのだろうか。
僕たちがサッカーの奥深い魅力にハマっていったのは、きっとサッカーがもたらす感動との出会いがあったから。
もちろんプレーは感動する要素だけれど、どこで、どのタイミングで、どの文脈でそれと出会えるか。
便利になりすぎてしまった現代、与えられた恩恵の影で、失われてしまったものの大きさを感じずにはいられない。