
25−0。
この数字を見たとき、あなたは何を感じるだろう。
「仕方がない」
「負けて学ぶこともある」
「成長のきっかけになる」
もし、そんな言葉が最初に浮かんだのだとしたら、
一度、立ち止まってほしい。
この試合に出ていた子どもたちが、
その90分(あるいはそれ以下)の時間で、
何を感じたのかを、想像しただろうか。
以前、私は育成年代で大差がついた試合について問題提起した。
すると日本では、多くの声が返ってきた。
「仕方がない」
「それも経験だ」
「強くなるには必要なことだ」
その数の多さに、正直、背筋が冷えた。
そんな折、スペインで同様の出来事が起き、
それが“問題”として議論されている記事を目にした。
そこで私が感じたのは、
サッカーのレベルの差ではない。
子どもを見るまなざしの差だ。
その記事の中で、こんな問いが投げかけられている。
「私たちは子供たちに、何を植え付けたいのでしょうか?」
「サッカーをしながら相手を辱めることから、子供たちは何を学ぶのでしょうか?」
スペインでは、
CDセラノスが最下位チームに25−0で勝利したあと、
勝った側の監督が解任された。
これは、「勝ったのに罰せられた」という話ではない。
その勝ち方、その過程、その教育的影響が問われた結果だ。
“どれだけ点を取れるか”が目的になった瞬間、
サッカーは教育でも、育成でもなくなる。
印象的だったのは、
9〜10歳のチームを率いるアイトール・セブリアンの行動だ。
「彼らは毎週のように打ちのめされています。
だから相手の立場になって考えてほしい。
ゴールを祝ったり、過度なプレッシャーをかけたりせず、
少しプレーさせて、楽しませてあげてください」
彼は、自分が教育者であることを知っていた。
一方で、記事はこうも書いている。
「週末になると、コーチであることを忘れ、
サイドラインから何が何でも勝つように叫ぶ大人がいる」
ここで問われているのは、
子どもたちの弱さではない。
大人の欲望と無自覚さだ。
日本ではよく「負けて学ぶ」と言われる。
確かに、フラストレーションは学習の一部だ。
スペインの心理学者もこう語っている。
「草の根スポーツは学習に焦点を当てるべきであり、
フラストレーションは学習の一部です」
しかし、同時にこうも言っている。
「問題は、私たちが結果を重視しすぎていることです」
25−0という試合の中で、
子どもは何を学ぶのだろう。
技術だろうか。
判断力だろうか。
それとも、
「自分はここにいていいのだろうか」
という、もっと深い疑問だろうか。
美談で上書きしてはいけない。
スペインでは、この問題に対して具体的な提案がなされている。
日本では、どうだろうか。
大差の試合が起きても、
「仕方がない」で終わる。
「負けて這い上がればいい」と言ってしまう。
でも、本当にそれでいいのだろうか。
もっとレベルの近いチーム同士で試合を組めないだろうか。
交流試合という形で、両チームごちゃ混ぜでやってもいいのではないか。
その方が、きっと双方に得るものは多い。
それすら考えずに、
「仕方がない」と言える大人には、
なってはいけない。
25−0という試合を見て、
何も感じない大人は、子どもに関わってはいけない。
それは厳しい言葉かもしれない。
でも、私はそう思う。
サッカーだけの話ではない。
日本の多くのスポーツで、
この問題は長く放置されすぎてきた。
変えなければならないのは、
結果ではない。
向き合い方だ。
10点以上の差がつく試合がなんでアカンの?という指導者は、もともと負ける側の立場になることが少ないのか、そもそも負ける側に立った時は指導者自身が興味なくして、試合や子どもたちの顔を見てないのかな…と思います。
— 板谷かつみ(ファルコンおやじ) (@falcon_oldman) 2026年2月1日
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