Instagramを眺めていたら、ブラジル(多分)の子どものフットサルの試合で、ボールのないところで駆け引きをするシーンが流れてきた。
この映像を見て、はじめて中南米を旅して、現地の少年サッカーの試合を観た時のことを思い出した。
日本の少年サッカーと全然違うこの空気感。
佇まい。
意志。
上手いとか下手とかではない、ピッチにその子がたちが存在する理由をそれぞれが強烈に持っている。
表現したいという意思を。
戦うという意思を。
ピッチで自立している子どもたちの姿。
自らの意思で、目の前の相手に勝つための駆け引き、戦いを。
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日本のジュニアサッカーでこのような光景を見ることは少ない。
ピッチでなにをして良いかわからない。
大人にやらされてしまう子がたくさんいる。
それはきっとサッカーの指導者が悪いのではなく、親が悪いのではなく、日本の教育文化との相性なんだと思う。
それだけではない。
島国である我が国のサッカーはやはり独特だ。
本場のサッカー、いやフットボールに触れるには物理的な距離がありすぎる。
映像で見る本場のサッカーと、生で見る本場のサッカーは違う。
映像で見る本場のサッカーと、実際にピッチで体感する本場のサッカーは果てしなく違う。
やはり本場との距離は果てしなく遠い。
でも、彼らの表現に近づくことは難しいけれど、彼らとは違う表現で戦うことはできるのかなとも思う。
彼らにはできない僕たちの戦い方がきっとあると思う。
でも、その話をする前に、目の前にある前提の違いに気が付かないといけないと思う。
彼らの子どもたちは、幼くしてピッチで自立している。
僕たちの子はどうだろう。
あれもこれも用意して、子どもの意思で動く前に、大人の意思で動かしすぎているのではないだろうか。
上手いとか下手の前に、土俵に立てるかどうか。
土俵っていうのは、自分の意思で上がるもの。
大人に上げてもらっている土俵は、彼らのものではない。
彼らと僕たちの違い。それは、意思を育んできたかどうかだと思う。
意思のない大人に、意思のある子どもを育てることは難しい。
子どもの前に、私たち大人が意思をもつことなのだと思う。