フランスをはじめとした多くの国々でエリートシステムが機能しているのは、裾野に多くのダイヤの原石が転がっているからです。原石は作られるものではありません。雑草のように勝手に育ってくるものです。
そうした国々では、底辺のサッカーは文字通り好き勝手に行われています。ちょっとした空き地があれば、やりたい者が次々と集まり、やがて球蹴りが始まります。ゴールがなければ、石やレンガをふたつ並べて出来上がり。シャツがまちまちでも関係なし。大人と子どもが入り混じってプレーするのも、決して珍しくはありません。多少人数が欠けていてもお構いなし。大勢でもみくちゃになってひとつのボールを争うのです。原始的なゲームの中で子どもたちはたくましくなり、創造性が磨かれていきます。
ところが日本の少年サッカーは自由度が高くありません。特に都市部では遊び場が少ないので、サッカーをしようと思ったら学校の部活に入るか、地元のクラブに入るしかありません。
そんな「組織」には、たいてい戦術や決まりごとにうるさいコーチがいます。
ドリブルをして敵にボールを取られたら、
「何やってんだ!ドリブルするな。パスしろ、パス!」
フリーの味方を無視してシュートを撃ち、それが外れると、
「何やってんだ!おまえどこを見てんだ!」
子どもは賢いので、やがてコーチに気に入られるような安全第一のプレーばかり選択するようになるでしょう。こんな環境では、自主性や想像力が磨かれるはずはありません。
ダイヤの原石が生まれる場所
サッカーという遊びを通じて好奇心を育み、子ども自らの意思で上達を願い、プレーを通じて成長していく。ここまでは、本来指導よりも環境が重要なのだと思います。
サッカーをプレーしたいという好奇心が刺激され、プレーを通じて主体的に学んでいける環境を用意するのがサッカーに関わる大人の役目なのだから。
どのレベルが最適かを見極め、プレー機会を与えること。
指導というより環境を設計する人。指導というよりサポートする人。(これが育成年代グラスルーツの指導者の大きな役目だと感じます)
子どもたちがプレーをする機会がたくさんある中で、上に行けそうなダイヤの原石が見出されていく。
今の日本は、その土壌がないがしろにされている。
遊びを経ずに、教育だけされた選手が量産されている
ストリートサッカーなどの遊びサッカーを思う存分やって原石の芽が出てくるのであって、その中から伸びてきたダイヤの原石を磨くのがエリート教育。
— Kei Imai (@Keivivito) 2023年7月22日
でも、ストリートサッカーも遊びサッカーもない状態で、最初から教育して、それをまた教育しようとしているのが今の日本。…
日本の場合、ダイヤの原石が生まれにくい土壌になってしまっていることがとても大きな課題なのだと思う。
サッカーの問題というよりも、社会の問題かもしれません。どのスポーツでもこの課題は大きいから。
遊び(余白)がない。
指導される、教育される機会しかない。
常に大人の管理下にいなければならない。
遊びを経ない教育だけされた選手が量産されているように見える。
サッカーの遊び方を教えられる大人が必要なのかもしれない。
でも、サッカーを教育の文脈で育まれてきた多くの大人たちにはそれは難しい。
でも、少しづつ変えていかなければならないんだと思う。