絵を描くことが好きでも、評価されない子供たちは次から次へと絵から離れていった。残ったのは、先生にどう言われようと、描いていれば楽しいといった自分のようなマイノリティ派だったと父はいう。
イラストレーターであり、エッセイストでもある安西水丸さんの娘、安西カオリさんの著書「ブルーインク・ストーリー」より
子どもたちのサッカーやスポーツに置き換えて読んでも、同じような事象はたくさんありますよね。
雨の降っている風景を描いたとする。
「いや、君、雨はこんな色じゃないだろう」
絵の先生にこんな風に言われたらどうしようもない。雨の色など主観的なものなのである。先生が決める色ではないのだ。そこに絵の面白さがあるのではないか。描き手によっては紫色に見える雨だってあるはずだ。
父には、絵が上手下手で評価してはいけないという考え方があった。
歪んだ形にも、濁った色にも、それだから魅力があると言えるのではないか。
ーーー中略ーーー
日本の美術教育は間違っているのではないか、父はつねづね疑問を抱いていたようだ。
美術教育のいけないところは、上手いか下手かで決めてしまうところ。人間は誰でも子供の頃に良いものを持っているが、成長してさまざまな教養を身につけていく過程で、少年のひらめきのようなものを捨てて、誰かが良いというから良い、ということを学ぶ。
絵は上手くなるけれど、子供の頃にあった持ち味が削れて、「上手い人」になっていく。描く人の持ち味が絵に出ていなくてはならないのではないか、そういうところを見ていた。
「上手い」には画一的な正解がない
大人は、子どもに画一的な正解を求めすぎてはいけないなと思います。
子どもは、大人の求める正解を出すためにサッカーをプレーしてほしくないなと思います。
子どもは、自分の内側から出てくる正解を出すためにサッカーをプレーしてほしいと思います。
自分の正解を出すためには、サッカーを観て、自分の内側から自然に湧き出てくる感性に従って表現すること。
おお、すごい!かっこいい!自分が感じる、そんなプレーを真似すること。そこからオリジナリティが創出される。
それなのに大人が、画一的な正解を子どもたちに求めてしまうと、途端にサッカーはつまらなくなる。
側から見ていても、それは本当にサッカーなのか?という問いが生まれてしまう。
みんなが同じように上手い、それを求めてきた結果、ボール扱いの上手い選手は増えたかもしれない。
でも、その選手ならではのオリジナリティはどうなのだろう。
大人が作った常識の範囲内、想定の範囲内で育まれる。そこを突き抜ける人材が稀にいることで、「枠を突き抜ける人材を求めている」などと都合の良いことを後付けで言う大人がいる。
それは、あまりにも都合が良い考え方なのではないかと思う。
子どもは、そもそも制御しすぎてはいけないのではないかと思う。教えすぎることで失ってしまうこと、一人ひとりに異なるアプローチが必要であることをまずは理解すること、そこからサッカーは始まるのではないでしょうか。
いや、サッカーだけではないのでしょう。
日本においては冒頭引用でご紹介した美術教育もそう、つまり教育の考え方なのかもしれません。
教育が変われば、あらゆるものが変わるのかもしれないと思います。
でも、これまでの教育を美化しすぎるあまり、先人をリスペクトしすぎるあまり、変えないといけないところを変えることができない風潮を変えないといけないように思います。
いいところを残し、変えるべきところを変える。この当たり前を変えられないことによって、子どもたちが社会に適応できずに苦しむ。
それで本当にいいのかなと思います。
安西水丸さんといえば、村上春樹さんと共著も出されているイラストレーターでその独特のタッチはたしかに印象的なものであります。
引用部分だけでなく、娘さんから見た父、水丸さんは実に子供の本質、いや人間の本質を見ようとするその姿勢を捉えているように思います。
何よりその感性、観察力、いや視点が本当に好きになりました。