「岡本太郎氏の本がヤバいです」
というメッセージが中村氏から入った。
中村氏はMy Colmnistというメディアを運営していて、ものごとの本質を捉える優れた目を持っている。私は彼の紡ぎ出す文章が好きで、彼の捉えている世界観が好きだ。
【参考記事】ホームで踊る女の子 – My Columnist
そんな中村氏から薦められた本を読まないわけにはいかなかったのである。
そしてこの本は私の大切な財産になった。
自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間"を捨てられるか
岡本太郎の言葉は生きている。
圧倒的な力強さ。圧倒的な感情表現に私の心は揺さぶられまくった。
圧倒的な泥臭さの中に人間の本質がある。
「生きる」ということの本当の意味をこの本は伝えてくれる。
本の一部を引用してご紹介しよう。
一度死んだ人間になれ
他人から見ればとるに足らないようなバカバカしいものでも、自分だけでシコシコと無条件にやりたくなるもの、情熱をかたむけられるものが見出せれば、きっと目が輝いてくる。
これは自己発見だ。生きていてよかったなと思うはずだ。
何か、これと思ったら、まず、他人の目を気にしないことだ。また、他人の目ばかりでなく、自分の目を気にしないで、萎縮せずありのままに生きていけばいい。これは、情熱をかけられるものが見つからない時も大切だ。つまり、駄目なら駄目人間でいいと思って、駄目なりに自由に、制約を受けないで生きていく。
そうすれば、何か、チャンスがおのずからひらけてくる。
人生を真に貫こうとすれば、必ず、条件に挑まなければならない。いのちを賭けて運命と対決するのだ。そのとき、切実にぶつかるのは己自身だ。己が最大の味方であり、また敵なのである。
今日の社会では、進歩だとか福祉だとか言って、誰もがその状況に甘えてしまっている。システムの中で安全に生活することばかり考え、危険に体当たりして生きがいを貫こうとすることは稀である。自分を大事にしようとするから、逆に生きがいを失ってしまうのだ。
己を殺す決意と情熱を持って危険に対面し、生き抜かなければならない。今日の、すべてが虚無化したこの時点こそ、かつての時代よりも一段と強烈に挑むべきだ。
坂爪圭吾氏の言葉を思い出した。
スピリチュアルとかカウンセリングとか自己啓発とか、癒されすぎて腐ってるひとは多いなあと思う。そんなことよりも、一回死ぬ(古い自分を一回殺す)ほうが早いんじゃないだろうか。延命措置は面白くないし未来もないから、生きようとするよりも「よし、死のう」的な考え方は有効だと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年3月20日
圧倒的な、巨大な社会の影
人の目、自分の状況が気になりだす。人生は辛い、厳しいものじゃないか。しかも自分自身が自覚する以前に、すでにまわりが自分を批判し、決めつけてくる。頭がいい、悪い、運動能力がある、ない、顔がきれいだ、醜い、等々。あらゆることで。
圧倒的な、巨大な社会の影だ。幼いときのみずみずしい自由感は次第に窒息させられて、世間一般の考えるとおりに考え、みんなのしゃべるようなしゃべり方をし、そういうことも気づかないほど、常識どおりの枠の中におさまってしまうのだ。
いわゆる「大人」。そうなるとかえって、好奇心という、ある意味で遊びであるようなものを意識の中に持たないといられないような気になる。一種のごまかしでもあるのだが。一般的ににいう好奇心は、責任をとらずに、ちょっと気をまぎらわし、日常のコンプレックスから己を逃す。つまり利用できる安全弁として使われる。
この人はこういう人間だと決めつけられること。自分以外の何者かが自分をいつの間にか定義付けること。こういうことの積み重ねが人間の自由を奪っているのだと思う。大人になればなるほど硬くなっていく。だからこそ常識を疑わなければならない。私は大人になどならなくて良いと思う。
人生も芸術も、つねに無と対決しているのです、だからこそ恐ろしい
自分のいのちを純粋に賭ける為に、ぼくは芸術の道を選んだと言ってもいい。芸術はまったくの自由である。現在、多くの人が失っている自由をとりもどす為に芸術は大きな役割を持っている。ぼくは朝から夜まで、まる一日、絵を描き、文章を書き、彫刻にナタをふるう。全部まったく無条件に自分を外に向かって爆発させていく営みだ。
この瞬間に、無条件な情熱を持って挑む。いのちが、ぱあっとひらく。それが生きがい。瞬間瞬間が新しい。好奇心と言えば、これが好奇心の源だろう。
無条件な情熱を持って挑むこと。そうすると”いのちが、ぱあっとひらく”。
私はこれなんだと思う。無条件の情熱を持って挑むことが、お金にならないだとか、それじゃあ食べていけないという言い訳が好奇心を殺しているのだと思う。残念ながら社会はお金を中心に回っている。そうである以上、好奇心に忠実に、無条件の情熱を持って生きることは困難を極める。なぜなら、社会で生きている人々の多くは情熱や好奇心を中心に生きているのではなく、お金を中心に生きているからだ。
でも、お金を中心に生きるのか、情熱や好奇心を中心に生きるのかを決めることはできる。大事なのはここだと思うんです。きっとお金は情熱的に生きた結果ついてくるものであり、お金のために生きてしまったら人間の本質が失われてしまう。
生命を賭けて遊ぶことで生命は燃え上がる
ぼくはつくづく思うのだが、好奇心というのは、そのように生命を賭けて挑む行動に裏打ちされなければ、生きる感動としてひらかないのではないか。だから、それはただの「お遊び」では駄目なのだ。全生命、全存在を賭けて、真剣に、猛烈に遊ぶのでなければ、生命は燃えあがらない。いのちがけの「遊び」と、甘えた「お遊び」とは、まったく違うのである。
今日は余暇社会などとも言われ、管理された日常の外に生きがいを求めようとする人が多くなっている。農作業でも、コンピューターの操作でも、強制された労働としてやれば苦役だが、自由な「遊び」として創造的に取り組む限り、それはよろこびだ。
言いかえれば、人生、即、芸術。
誰でもが好奇心を大いに発揮して、真剣に、無条件に、人生をひらいてほしい。
全生命、全存在を賭けて、真剣に、猛烈に遊ぶのでなければ、生命は燃えあがらない。
誰でもが好奇心を大いに発揮して、真剣に、無条件に、人生をひらいてほしい。
岡本太郎の言葉は現代社会に生きる平和ボケした私の心に突き刺さった。
情熱的に生きること。
生命を賭けて遊ぶこと。
そのように生きるために自分の心と向き合うこと。
心が行きたい方向に行くこと。
好奇心に従ってやってみること。
そして圧倒的な行動が人生をひらく。
【お勧めの本】
・「一流の育て方」 〜主体的に幸福な人生を切り開くためのヒントが記された一冊〜
サッカーの本質を追求する旅はつづく…
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