セルジオ越後さんの著書「セルジオ越後の「子育つ論」」。
毒舌サッカー解説者として名を馳せるセルジオさんですが、その言葉はいつも本質を突いています。
今回はセルジオさんの著書より、「大人の顔色をうかがう子どもたち」というとても興味深いテーマで書かれている部分をピックアップしてご紹介したいと思います。
大人の顔色をうかがう子どもたちを量産する大人たち
私は、子どもたちの自主性を開発するために、レフェリーなしのゲームをときどきやらせます。子どもたちに、自分たちで議論し、早く言えば口げんかを自分たちで解決する場を与えるわけです。
日本では、試合ともなればレフェリーや監督がついていて、大人が管理し指揮をとります。そして、そういう立場をたとえ子ども相手であっても喜び、「いっぱしの監督さん」になったつもりの人が少年野球などではたまに見受けられます。管理されすぎると、子どもたちはすべての基準をそこで監督している大人の顔色に合わせるようになり、善悪の判断も、どこまで頑張ればいいのかも、いちいち大人の顔色を見ながら決めることになります。それでは、スポーツという、元来は豊富な社会経験であるべきはずの行為が、授業の延長、家庭教育の延長になってしまいます。それでは意味がありません。
だからサッカー教室では、大人は口を出すなと言います。子ども同士で利害が対立し、けんかをすることで、ゲームの意義が高まるのだと説得します。それを促進するために、「今日はレフェリーなしで、仲良くけんかしながらサッカーをやろう」と子どもたちに言います。「ルールを尊重しよう。でもけんかは負けるな。にらみ合いだけじゃ引き分けだ。相手を言い負かさなきゃだめだ」と。
最後まで、自分の子どもの靴の紐がどうの、パンツが半分さがってると、横から口を出して、子どもに声を飛ばす親がどこにでもいるんです。
私はマイクを持って「すみませんが、この子はこう見えて、まだまだ将来があるんです。マネージャー(付人)は、一人前になってからつけてください。二十年早いんじゃないですか」と、はっきり言います。お母さんは、まるで悪いことでもしたみたいに恐縮しています。
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主体性を育むこと
私は学生時代にサッカーコーチをやったとき、子どもたちと向き合って大切なことがわかりました。
それはサッカーを教えることよりも、主体性を育むことです。
たいていの大人は子どもに色々と教え込み、徹底的に管理しようとします。
日本の場合は特に人の目を気にするあまり、しっかりと“しつけ”をしているように見せなければいけない。コーチであれば、しっかりと教えている、子どもが教わっている光景を演出しなければいけない、と。
大人の都合を優先し、教育の本質とはかけ離れてしまっている光景を頻繁に目にします。
子どもを成長させる上で、いや、人間が成長する上で大切なことは“主体性”なのです。
誰かに強制的にやらされて身につくことももちろんありますが、好奇心と主体性がベースにある技術には及ばないということをもっと大人が理解しなければならないと思います。
セルジオさんの言う、大人の顔色をうかがう子どもたちはいたるところにいます。
大人に求められているのは、管理することよりも、教えることよりも、引き出してやることなのだと思います。
子どもが自ら主体的に表現できるような空気感を大人が醸成していかねばなりません。
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サッカーの本質を追求する旅はつづく…