
あるジュニアサッカークラブのコーチが、淡々と語る。
「このチームは毎年2年生になる前に半分以上サッカー部辞めるんですよ」
「この中学サッカー部の卒業生も高校でサッカーを続けない子がほとんど」
その言葉には、痛みも、疑問も、驚きもなかった。
ただ、“事実”として並べられていた。
けれど、その“事実”の裏には、
いくつのサッカー人生が、静かに閉じられていったのだろう。
そのひとつひとつに、意味がなかったとは、誰にも言えないはずだ。
サッカーを辞める子どもたちは、「夢中になれなかった」のではない
私たちはときに、「サッカーが合わなかったんだろう」と言う。
でも本当にそうだろうか。
ボールを蹴ることに夢中になった日。
仲間と勝って抱き合った帰り道。
負けて泣いた試合の空。
そういう記憶が、きっと一度はあったはずだ。
子どもたちは、サッカーを“嫌い”になったわけじゃない。
ただ、「このまま続けていたら壊れてしまう」と感じたのかもしれない。
“指導”とは、「存在の否定」ではなく「肯定の技術」であるべき
怒鳴られることが日常になってしまった場所で、
子どもは、自由に動けなくなる。
ミスを恐れ、表現をやめ、
そのうち、心だけがチームから離れていく。
そして最後は、体もボールから離れていく。
本来、サッカーは不完全な遊びだ。
その不完全さを味わいながら、他者と繋がる。
だからこそ、サッカーを通して人間を知ることができる。
でも、指導が「正解だけを求めるもの」に変わった瞬間、
そこに“遊び”も、“気づき”も、“自由”も消えていく。
子どもがサッカーをやめるとき、大人は問われている
本当に問われているのは、子どもではない。
「続ける・やめる」という結果の背後にある、
関係性のあり方、まなざしの深度、関わりの質。
それらすべてが、ひとりの子どもを
「続ける未来」へと導くこともあれば、
「辞める決断」へと向かわせることもある。
育成とは、
“続けられるかどうか”の環境を耕す営みだ。
指導者は、教える者ではなく、問いを抱く者である
いま、自分がしている指導は、本当にこの子に届いているか?
「正しさ」を押しつけてはいないか?
自分の価値観を、知らずに優先させてはいないか?
問いを持つ者だけが、育てる側に立つ資格がある。
問いを手放した瞬間から、指導は“支配”に変わっていく。
サッカーを辞めた子の背中に、言葉を届けられるか?
「またやりたくなったら、いつでも戻っておいで」
「君と過ごした日々は、かけがえのない時間だったよ」
そう言えるような関係性を、築けていただろうか。
サッカーを続けること以上に大切なのは、
サッカーを通じて何かを受け取れたという実感。
技術より、正解より、勝利より、
それこそが“育成”と呼ばれるものの、本質に近い。
サッカーが特別なのは、
誰かの言葉ではなく、自分の体と心で「気づける」スポーツだからだ。
だからこそ、
子どもたちが自ら問いを持ち、
その問いに向かって歩めるような環境を、大人がつくる必要がある。
育成とは、
教えることではなく、「辞めなかった」と言ってもらえる時間を、
一緒に積み重ねていくこと。
それが、
大人になってから気づく、サッカーの本質のひとつなのかもしれません。