これは ただのボール遊びだよ 俺は生まれてから今日まで サッカーで努力したことなんて一度もねえよ お前もそうだろ?つくし - DAYS | アル
休日、子どもと近所の公園にサッカーしにいくと、必ず目にする光景があります。
ジュニアサッカーの試合、子どもとマンツーマンで練習するパパ…
どちらも共通するのは、一生懸命サッカーしている子どもの姿。
サッカーがとても普及したんだなとは思います。
でも、子どもたちだけでボールで遊んでいる光景をみることはなくなってしまったように思います。
子どもが、大人の管理下でしかサッカーできなくなってしまった
子どもたちの世界に大人が介入しすぎている気がします。どこにいくにも親が一緒じゃなきゃいけない。昔と比べるとその傾向が強いように感じます。
でも、大人の目を気にせず、子どもたちだけで作り上げる世界ってめちゃくちゃ大事だと思います。
親に怒られるから、大人に怒られるからって常に制御が働く環境に身を置くと、それこそ自由な発想も生まれにくく、大人に忖度したなにかしか生み出すことができない。
それってつまり、遊びが遊びじゃなくなってしまう可能性すらあるのではないかと思います。
遊びってなに?
遊びってなんなんでしょう。遊びとは、自由に、誰からも強制されることなく、矯正されることなく、自ら楽しめるものです。
サッカーはそもそも遊びです。本来、習い事でもありません。それを忘れてしまった大人が、いや、食い扶持にして、本質を見失ってしまった大人が、マーケットがその根源的な”遊び”を奪ってしまったのかもしれません。
冒頭の漫画DAYSのシーンのように、サッカーで努力をするという発想自体が間違っているのかもしれません。
努力しないと巧くならない。否、夢中でやっていたらいつのまにか巧くなった。
少なくともこれからは、後者の発想が子どもを、いやサッカー文化を育んでいくのではないかと思うんです。
私たちが子どもの頃、大人に怒鳴られたり、殴られたり罰走させられたりと理不尽な指導は今以上にたくさんありましたが、子どもだけで遊べる機会、環境はもっとあったように思います。
サッカーが巧くなった理由は間違いなく後者。理不尽な指導で巧くなった実感はなく、自由に遊べる環境が自分たちを育んだんだと思います。
子どもに努力させないようにすること
巧くなるためには…、勝利するためには…って子どものサッカーに大人が躍起になるのってそもそもおかしいことで、それって本来、子どもたちがそう感じて、心から欲するようになってはじめて大人がサポートするものだと思うんです。
現場を見ていると、多くの場合逆です。大人が巧くさせたい、強くさせたいが故に、子どもに押し付けてしまっているように見えます。
考えるべきなのは、巧くなりたい、勝ちたいってどう思わせるかです。
一番簡単なのは、大人がなにかに挑戦している姿を見せることです。大人自身がサッカーを巧くなりたいと思って、練習したり、走ったりする姿を見せること。挑戦する姿を見せることです。サッカーじゃなくてもいいです。仕事でも、マラソンでも、筋トレでも、自分が楽しいと思えることをより高みを目指すこと。
好きなことを、自らの意思で楽しんでやってそれで能力が上がることって、つまり努力による成果ではないと言えるかもしれません。
子どもに努力させる大人は3流。夢中で遊んだ結果巧くなった状態をつくること。それが本来スタートラインだと思います。
サッカーの本質を追求する旅はつづく…

- 作者:吉藤 オリィ
- 出版社:サンクチュアリ出版
- 発売日: 2021年05月08日頃
