ホンジュラスのジュニアの草サッカーの光景
大学卒業後に、中南米のホンジュラスを旅していた時のこと。
小さな街というよりも村の中にある、雑草が生い茂ったグラウンドで子供たちのサッカー大会が行われていました。
8~10歳くらいの子どもたちです。
上手い子も、下手な子も、小さい子も、大きい子も、痩せてる子も、太っちょな子も、色んな子がボールを追いかけていました。
その光景は日本で見てきた少年サッカーの光景とは少し異なりました。
どこが違うのだろう?
一人ひとりが、自分を表現しようとしているんです。
やらされている子どもが一人もいない。感情丸出しでプレーする。
日本でも低学年だとこの感覚が残っていることがありますが、多くの場合、大人の考えるサッカーの枠組みの中に抑え込まれ、プレーを強制・矯正されてしまうので、ホンジュラスの子どもたちのような自然な内面の発露がプレーに出ることは少なくなっていきます。
このホンジュラスの少年サッカーで、強烈に印象に残っている光景があります。
小さくて、あまり走らない子がいたのですが、その子がボールを持つと、独特の雰囲気を醸し出し、それまで忙しかったサッカーに余白が生まれるんです。
足も速くないし、体も見るからに強くない。でも、独特の間合いでボールを持ち、ゆったりなめらかにプレーするんです。
一人だけ見えてる世界が違うような、それでいて繋がっている感じ、ボールと、仲間と、相手と。
奪われないし、でこぼこのグラウンドでもボールがなぜか跳ねない。
当然マークもきついわけですが、相手のタックルが膝の辺りに入って転倒した時、すぐに起き上がってタックルをした相手に猛ダッシュで駆け寄り、激しく抗議し、大人の審判にもレッドカードを要求しました。全身で感情を表現する少年を見て驚きました。
10歳にも満たない子どもがこれだけの意思表示をできることに、ちょっと衝撃を受けました。
自立しているんです。強い意思を感じました。
自然体で、感情を解放する子供たち。
だからこそ彼らにとってサッカーがこんなにも特別なものなんだろう。
僕らの国では、ここまで感情を表現することは難しい。文化として、国民性として。
大人になればなるほど、感情を解放することが許されなくなる。社会でも、ピッチでも。
制御できることは大事なこと。でも、制御してはいけないものがある。
サッカーのために、いや人生のために。