私たちは人間社会で暮らしているのですから、人間社会の作りだした尺度を無視することはできません。人間が作りだした尺度に従うことも大切なことです。
すべての人が勉強をしている現代社会で、テストで良い点を取って、偏差値が高い優秀な学校へ進学できる人たちは、評価されるべきです。
多くの人たちがスポーツに取り組む中で、一流と呼ばれるアスリートとして、良い記録を出したり、良いパフォーマンスを見せてくれる人たちは、高い評価を得るべきです。
みんながお金持ちになりたいと思っている中で、仕事をして高い収入を得ている人たちも評価されるべきです。
しかし、それで人間に優劣がつくわけではありません。
人間が作りだした「ものさし」も大切ですが、本当は、その「ものさし」以外にも、たくさんの価値があるということを忘れないことが大切なのです。
つまり、「違い」を大切にしていくことなのです。
「ものさし」で測ることに慣れている大人たちは、皆さんにこういうかもしれません。
「どうしてみんなと同じようにできないの?」
<引用文献>
指導者のスタンス
「サッカーとはこういうものだ」という指導側の押し付けが、サッカーを歪めてしまっているように思います。
強くさせたい、上手くさせたいという思いを持つことは自然だと思うけれど、大事なのはそのための手段。
昔、結果を出してきた指導者の価値観に安易に倣うことに違和感が持てないと、とても難しい。
時代も変わり、構造も変わっている。
情報量も変わり、多様性も増している。
それにより人の価値観も変わり、文化も変化している。
それらを踏まえ、それらをキャッチアップしながら、子どもたちと向き合うことが求められているのではないでしょうか。
指導者のスタンス、それは指導コンセプト以前に、子どもたちと接する一人の大人として、社会とつながる一人の大人として求められるように思います。
サッカーを伝えるということは、サッカーと社会の接続を一部担うということである。否応なく。
現在の課題は、指導側にその理解が欠けていることと、指導者が社会につながっていないということ。でもこれはは社会課題でもあると感じています。
いやそもそも、サッカーとはなにか?を考えると同時に、社会とはなにか?を考察する機会を持つ必要があるのかもしれません。
「どうしてみんなと同じようにできないの?」
この言葉が子どもに向けられてしまう背景は、指導者が社会の変化にキャッチアップできておらず、多様性の無理解にあるのではないかと。
昔と比べるとそのような指導者は減ってきているという話も聞きますが、まだまだ多いのではないかと思います。これはサッカーに限らず、スポーツ指導全般、そして学校教育にも共通する課題なのではないでしょうか。
学校という空間が社会とつながっていないという大きな問題も関係していると感じています。
もちろん、素晴らしいリスペクトしている指導者の方も周りに何人もいます。でもそれは全体のほんの一部であるというのが現実であると、現場にいけば思い知らされるのです。
サッカーの本質を追求する旅はつづく…