小さいときから勝手気ままな一人遊びが大好きで、今もまったくそのまんまの人生を続けている絵本作家の女友だちがいますが、その人から、子どものころ一人で遊ぶのがとても大変だったという話を聞いたことがあります。
なにしろ楽しいので、たとえば砂場などで一人で遊んでいると、必ず先生がやってくるのだそうです。「みんなで遊びましょうね」って。仕方がないから、しばらくはみんなと遊ぶのですが、やっぱり一人のほうがおもしろい。で、また砂場に戻って遊んでいると、また先生が来る。それを何度か繰り返しているうちに、しまいには、先生がほかの子ども二、三人を砂場まで送り込んできたそうです。「いっしょに遊んであげてね」と。
わかるような気がします。ありそうな話です。その子を見ないで形を見ている。一人という形を見ている。一人ぼっちという図式を見ている。一人ぼっちはよくない、みんなで仲よしというのがいいという形式で見る。で、実のところ、何も見ていない、何も考えてない、何も感じていない、つまりサボっている。とりあえず指導者、保育者の立場の大人によくあるパターンです…
絵本作家の五味太郎さんの本の一部を引用しました。
大人の問題
大人の問題って、すごくたくさんあります。
でも、ふりかえってみると大学生になって、学校生活、部活動以外のバイトや課外活動が活発になって様々な大人に触れるまでは、大人の問題がこれほどまでに強烈だと思うことはありませんでした。
とりわけ決定的だったのが、サッカーコーチのバイトをはじめた時でした。信じられない大人の振る舞いに衝撃を受けたのを覚えています。今時、子どもに強制や矯正をここまで強いるのかと、しかも非科学的で時代遅れのことを…、という衝撃。
そして、大人が無意識に行っている教育や指導というものに疑問を持つようになりました。
何も見えない、考えない、感じない人が、生まれやすい教育
日本の教育って、とても全体主義的なんです。この社会に蔓延する同調圧力の根元は教育にあると思います。一人で遊んでいる子を見て、可哀想だからみんなと遊べるようにしてあげなきゃという気持ちって、善意なんです。多分悪い人ではないと思います。でも、一人で遊ぶことは可哀想という価値観は既存の教育の産物なのではないかと思うんです。みんなと一緒に…ってかなり強く刷り込まれた気がします。自分が受けた教育を振り返ると。ちょっと個性が強い子はいじられてました。周りと同じようにできない子は、とても辛い日々を送らざるを得なかった。そんな教育のもとで生きてきた人は、一人ひとりの個性や特性に対して無頓着になってしまう。
先日ご紹介した”「育てない」から上手くいく”という本にこう書いてありました。
親や教師は「子どもにとって善いはず」という考えを抱きながら教育してきたはず。
「地獄への道は善意で敷き詰められている」という諺の通りのことが往々にして教育の名のもとに行われているのかもしれません…
何も見えない、考えない、感じない人って、結構多いなと思うことがあります。SNSをみていても、子どもたちのスポーツ指導の現場に行っても、教育によって損なわれてしまっている局面を多く見かけます。
教育とは何か?というのを今一度、考える必要があるのではないかと思います。
真実を見て、考えて、感じることができる人を増やしていきたいなと、一人の大人としてできることをしていきたいなと思います。