ボールはこうやって蹴らなければならない。
ボールはこうやってドリブルしなければならない。
ボールはこうやって止めなければならない。
サッカーから自由がなくなったのはいつからだろうか。
サッカーから遊びがなくなったのはいつからだろうか。
サッカーはシンプルで、より自然なものだ。
人間の根源的な感情を表現し、プレーするために生まれたものだ。
サッカーは進化しているといわれているけれど、本質は変わらない。
日系ブラジル人、ネルソン松原さんの著書にこんな表現がある。
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サッカーは自然体でプレーするもの
フィールドの上をボールが転がる。それを追いかけてゴールを目指す。サッカーはとてもシンプルなゲームだ。
そのボールは何でできてる? 牛の皮だ。フィールドには何が生えてる? 緑の芝だ。だからボールを転がせ。大地をゆく牛が、草を食べるように。パスはフィールドを這わせろ。それが自然だ。サッカーとはそういうものなんだ。
ブラジルにいた若い頃、そんなたとえ話を聞いたことがある。どこで誰に聞いたかは忘れてしまったけれど、なるほどサッカーの原点を語っている。ぼくは深く納得して、胸に刻んだ。世界にはいろんなスタイルのサッカーがあるけれど、ぼくの理想はそこにある。サッカーを人に教えるようになってからも、よくこの言葉を口にする。
【参考著書】生きるためのサッカー: ブラジル、札幌、神戸 転がるボールを追いかけて
サッカーは生きるためにある
ぼくにとって、サッカーは“生きるため”にある。たくさんの人たちに出会い、様々なサッカーを見てきた。プレーヤーとして数えきれないほどのゲームに出て、何人もの相手をかわし、ゴールを決めてきた。指導者としていくつものフィールドに立会い、ブラジルで身につけた技術と考え方と、何よりも「フッチボウ」の楽しさを伝えようとしてきた。それが「牛革のボールを緑の芝のフィールドを這わせる」サッカーだ。
ただ勝ち負けを競うサッカーではない、生きるためのサッカー
足元でボールを上手くコントロールしながら、空いたスペースを突いて短いパスをつなぎ、少しづつ流れるようにゴールに攻め上がっていく。力任せに大きく蹴り込んで一気にゴールに近づこうとするのは、本来のサッカーじゃない。たとえそういう戦術で試合に勝てたとしても、それはぼくの目指すサッカーとは全然違う。
ぼくのボールは地を這って、地球というフィールドを移動していった。
ぼくはそれをひたすらに追いかける。なぜなら、それが自分の信じるサッカーのスタイルだから。
ただ単に勝ち負けを競うためのサッカーではなく、“生きるためのサッカー”。
日系ブラジル人の指導者であるぼくは、それを父祖の国で伝えたいと思ってきたし、これからもそうしていくだろう。
【参考著書】生きるためのサッカー: ブラジル、札幌、神戸 転がるボールを追いかけて
ネルソン松原さんのこの本は、サッカーの大切なことを思い出させてくれる。
サッカーを心から楽しむことができているのだろうか、情報に振り回されて本質を見蒸しなってやしないかと、今一度自分の在り方を考えさせてくれる。
そして、やはりサッカーの原点をネルソン松原さんの半生を通じて改めて学ぶことができます。
ぼくの行く先はぼくのボールが決める。ぼくはひたすらにそれを追いかける。#サッカーの本質 #サッカー #サッカーボール #少年サッカー #ジュニアサッカー #ブラジル日系移民
サッカーの本質を追求する旅はつづく…