ブラジルにはサッカーの神様がいる
サッカーが生きている。
サッカーが呼吸をしている。
サッカーが喜んでいる。
サッカーをする人々は”自分の内にある感情”を惜しげも無く表現する。
サッカーの神様は、自分を表現する者に微笑む。
表現するというのは、自分の内にある生命”を外に解放するということだ。
ブラジルのファベーラに息づく日常をみてみよう。
サッカーは感じることからはじまる
サッカーは感じることなしに表現できないのだ。生きることも同じだ。
中南米にいた頃、サルサクラブにサッカー仲間と行った時、カウンターでひとりモヒートを飲んでいたら、褐色の美女が声をかけてきた。
美女「踊りいましょう」
私「ごめん。踊りは苦手なんだ。」
美女「感じてないの?」
私「なにを?」
美女「音楽をよ。リズムを。音の感情をよ。」
音楽を感じること、感情を身体で表現することが踊りなのである。
ピッチで相手を感じ、流れる空気を感じること、そして自分を全身で表現することがサッカーなのである。
これは”生きる”ことも同じだ。
”感じろ” ”生きろ”
ただただ同じことの繰り返し。決まったことをただやる毎日。そんな日々をただなんとなく過ごすことは”生きている”とは言えないのではないか。
サッカーもそうだ。ただ決まった練習をやる。ただなんとなくボールを蹴る。言われたことを、課せられたことを淡々とやりつづける。
サッカーが死んでしまっているよ。
間違っているよ。オカシイと思うよ。
もっともっと”気持ち”を”感情”を表現していいと思うよ。
いや、表現しなきゃいけない。
ダサくったって、間違ってたっていい。
完璧でいようなんて思わなくていい。
カッコ良くいようなどと思わなくていい。
もっと泥臭く、自分が感じたことを表現していい。
間違ってると感じたことに素直になっていい。
日本は”感じる”ことが、ないがしろにされてしまっている。
頭で考えることよりも、感じることをもっとしていかないとサッカーの神様は微笑んでくれない。
魅力的な人に完璧な人はいない。自分の不完全さを認めた上でありのままをさらけ出せる人が魅力を纏うのだと思う。固い大人は弱さを隠している。弱い自分を隠して完璧に見せようとする。こういう感覚を醸成しちゃう社会の常識とか同調圧力がホントにヤバいと思う。
— KEI 整える。変化させる2月 (@Keivivito) 2016年2月21日
サッカーの神様は言う『感じることのできない者は去れ』
サッカーの本質を追求する旅はつづく…
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