Suerte Juniorsというクラブがある。
私がはじめてサッカーコーチとして携わったクラブである。
このチームに大学生の頃から5年間、指導者という立場で関わった。その後、中南米一人旅をしたりサラリーマンをしながら外国人リーグでプレーしたりで今があるのだけれど、私が当時教えていた子たちが今や大学生になろうとしている。そんな彼らと久々の再会を果たし、また一緒にボールを蹴ることになった。
自分の答えは自分で出すということ
Suerteというクラブのことを、代表であるくぼっちのことを少し書いておこう。
私はくぼっちから「コーチとはこうあるべき。だからこうやって教えよう」などということは一切言われたことはない。ただ一緒にボールを蹴って、お互いが考えた練習を見て、子供たちの反応をみて、試合に行って子供達をみて、様々なチームをみて、コーチたちそれぞれがどう感じたのかをMTGなどでシェアすることもなく(そもそもMTGもやった記憶がない)ただただ私たちコーチが感じたこと、子供達が感じたことを大切にし、それを見守るような感じだった。
”自分の答えは自分で出すんだよ”ということをくぼっちという一人の人間がサッカーを通じて発信し続けた結果、コーチである我々も、子供達も”それぞれがそれぞれの答えを求めること”を追求するようになったんだと思う。
サッカーは”それぞれの答えをそれぞれが出すこと”であり、それは一人の人間として生きていく上でのベースになければならないことなのである。
それぞれの異なる個性が調和したときにこそ最高のサッカーが表現される。
誰かと違うことを求めながらも、同じゴールを目指すのがサッカーなのである。
そんな空気を醸成する人がくぼっちであり、Suerteというクラブなのだと私は感じている。
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それぞれの表現を育むということ
話を戻そう。そんなSuerteというクラブを巣立ったOBである彼らと久々にサッカーをしたのである。バリバリの現役選手もいれば、サッカーやめて久々にボールを蹴るやつもいる。そんな彼らのプレーをみてサッカーの本質的なものがまたひとつみえた。
Suerteというクラブで育った彼らのスタイルは小学生の頃から全く変わっていなかった。テクニックや技術はもちろん上がっている。でも彼らが小さい頃にそれぞれが育んだそれぞれのベース。ボールの持ち方、間合いや駆け引きの仕方は当時と全く変わっていない。それぞれがそれぞれの表現の仕方をもつことが出来た子達。それはどのように育くまれたのだろうかと思い返してみる。
サッカーを教わらずにひたすら真剣な遊びを繰り返した
一言で言うとこれなのである。彼らは練習が始まる前に集まってきて勝手に試合を始めて勝手に真剣勝負をした。ひたすらそれをやりつづけた。それぞれが独自性をもつことが出来たのは強制も矯正も一切なかったからだと思う。それぞれがそれぞれのイメージをもち、それぞれの最高を引き出し合うそんな空気がピッチにいつも漂っていた。
コーチ達の功績といえば最初に(幼稚園児の頃)好奇心に火をつけ、彼らの真剣な遊びを邪魔しなかったということだろうか。練習の時間が来たから練習しなきゃいけないではなく、真剣に遊んでいるならいいじゃないか。そんな感覚だった。
そして数年の時を経てみた彼らは、まさにその時に育んだ独自の感覚を失ってはいなかった。
私はこの子たちからまたひとつ学んだのだ。サッカーはそれぞれがそれぞれの答えを出すことであり伝えるべきことはそれであり、大切なのは真剣な遊びができる場所の創造であり、その空気の醸成であることなんだと。
自分の人生は自分でつくる
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