私はドリブルが大好きだ。高校生くらいまでは本当にドリブラーだった。
本気でプロサッカー選手になるつもりでいたからいつも考えていたのは、いかに目立つか。いかに驚かせるか。そんなことしか考えていなかった。
デニウソンのドリブルをみて驚いた。リケルメのキープ力をみて驚いた。ロナウドのドリブルの切れ味に驚いた。彼らは常識を超えていた。常軌を逸していた。ありえなかった。
当時、私はひどく感動した。そしてこういうプレーを表現したいと強く思った。
毎日ひとりで遅くまで、暗くなっても公園で技を磨き続けた。
高校では一年生の時からレギュラーを勝ち取ったし、国体候補まで選ばれた。
それなりにドリブルには自信はあった。
しかし、大学でサッカーをしたときに全然ダメだとわかった。当時、風間さん(現フロンターレ監督)の元に集まった選手たちはプロ経験者や高校時代に全国を経験しているようなやつらばかりが集まった。私よりドリブルの上手い選手は何人もいた。
今や現在全国にその名を轟かせる”カモシカドリブラー”もそのうちの一人、彼以外にも上手い選手はたくさんいたのだ。
私はこの時、これまで培ってきたドリブルの使い方を学んだ。センターバックとしてレギュラーを掴み、そのポジションでも私の培ってきたドリブルの感覚は生きた。ボールを持てるセンターバックは珍しかったし、ボールの持ち方や置き所を高いレベルで要求される風間スタイルに適応できたのは少年時代にドリブルで培ったボール感覚がなければここでプレーすることはできなかっただろう。そして、ドリブルという武器を表現するためには良いトラップも良いキックもできなければならないということをこの時に学んだのだ。
ドリブルばかりさせてたってサッカーは上手くならない
ドリブルの練習をしていたらドリブルは当然上手くなる。しかし、ドリブルが上手いことはサッカーが上手いことにはならない。それなのにドリブルをひたすらやらせるチームが結構多いことに私は驚いている。「将来役に立つ武器を磨く。ボールを持つ技術はサッカーの基本であるからまずはドリブルを磨く。」こういう考え方はアリなのかなと私は思う。
しかし、私はドリブルばかりさせて、11人全員がそういうスタイルを魅せるというのはあまり美しくないなと思う。こないだの聖和のサッカーもそう。あれだけドリブルが上手いのにそれしかできない(やらない?)ではクリエイティブではない。あれだけの武器を最大限に生かす術を知る必要があった。
野洲が高校サッカーに一石を投じた時。
あのチームはひとりひとり、それぞれがそれぞれの武器を表現した結果生まれたものだった。全員ドリブルが上手いだけじゃなく、精度の高いサイドチェンジも球離れの良い精度の高い展開ができるボランチもいた。
第84回全国高校サッカー選手権大会 決勝戦 鹿児島実業vs野洲6
つまり良いトラップができるから”ドリブル”が生きるわけであって、良いパスができるから”ドリブル”が生きるわけであって、良いシュートが打てるから”ドリブル”が生きるわけだ。ドリブルしかないなと思われたらそれで抜ききるしかない。そんなのは不可能だ。だからこそ、”ドリブルという武器”を生かす術を身につけなきゃいけない。
ドリブルにこだわり抜いて、結果的に本質を忘れてしまってはいけない。
サッカーで選手を育てる上で大切なのは”個性の創造”
私は選手を育てる上で大切なのは”個性の創造”だと思う。守備網を切り裂くドリブルが特徴の選手もいれば、ボールを奪われないドリブルが特徴の選手もいれば、キックが大好きで誰よりも正確に強烈なシュートが打てる特徴がある選手がいる。
ネイマールもイニエスタもピルロも独自の最高のものがある。そういう個性はどうやって育てるのだろうか?
私は育てるのは不可能だと思っている。”個性”は勝手に育つものだと思うのだ。育ちやすい環境はあっても一流を育てるためのメソッドなど存在しない。そんなものがあったらおぞましいとさえ思う。
教えて個性をスポイルする大人たち
今の日本の大人たちは必要以上に教えすぎているのではないかと思う。
人から教えられたことも、その教師も、あるいは教師に従って今までとは違った生を送ろうとする門人も、きれいさっぱりと捨て去ってしまうことが必要である。肝要なことはただひとつ、学ぶことだけであり、学ぶことのうちに即行為がある。学ぶことは行為と別に離れてあるものではない。
— Krishnamurti (@krishnamurtibot) 2015, 12月 24
教えることが大切なのではなく、学ぶことが大切なのだ。我々にできることはいかに好奇心を刺激するかということであり、いかに彼らが勝手に学ぶ仕掛けを創るかなのではないかと思う。
「こうあるべきだ」とされるもののこの模倣が、恐怖を育み、そして恐怖が創造的な思考を殺します。恐怖は精神と心を鈍らせ、私たちは人生の意味全体に対して鋭く目覚めていることができなくなります。私たちは自分自身の悲しみに対して、他の人たちの微笑や惨めさに対して鈍感になるのです。
— Krishnamurti (@krishnamurtibot) 2015, 11月 13
教える人というのは往々にして「こうあるべきだ」とされるものを丁寧に提供してくる。価値観の押し付けや強要は暴力でしかない。教える人の心に”自由”や”創造”がなければ酷い結果になる。教える人と教わる人に分けるのではなく。創造する人と創造したい人が存在すればいい。
サッカーの本質を追求する旅はつづく…
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