今朝読んだ記事の一部をご紹介したい。
親の言う通りにするのがいい子、先生に従えば優等生、上司の無茶振りに応えればデキる人。
わたしたちはそうやって育ってきた。
親の言うことは正しいのか? 教師の指導は理にかなっているのか? 上司の采配は最適なのか?
そんな疑問をもってはいけない。
だって和を乱すから。面倒くさいから。迷惑だから。
そうやって教え込まれてきたから、いつでもどこでも、わたしたちはだれかが答えを与えてくれると思ってしまう。
ーー中略ーー
一方、わたしが住んでいるドイツは多くの哲学者を排出した国として有名であり、議論好きの国としても知られている。
本屋にはさまざまな専門書、それこそ入門書から玄人向けの本が置いてあるが、「サルでもわかる」「これ一冊で」といったキャッチコピーはまず見かけない。
『経済学概論』『初心者向けの法哲学』『世界史 アジア編』など、シンプルなタイトルのものばかりだ。
もちろん、筆者はできるかぎりわかりやすく書く努力はする。
でも、日本で見かけるような、やたらとカラフルでポップ、文字が大きく、萌え絵や擬人化キャラが解説する本はほとんどない。
考えながら読み、わからなければ調べ、質問する。
そこで意見が生まれ、議論に発展し、考えが深まる。
ドイツではそうやって学んでいくのだ。
だから「わかりづらい」という言葉は、「わたしは理解する努力をしませんでした」という意味になり恥ずかしいことなので、あまり使わない。
(「論旨が明確ではない」「要点が整理されていない」という意味で「わかりづらい」と言うことはあるけど)
日本で「わかりづらい」と堂々と言えてしまうのは、「答えを教えてもらって当然」という前提があるからだ。
引用元:「わかりやすい表現でわたしを納得させてみろ」という尊大なクレーム精神は、現代人の病 | Books&Apps
親の言う通りにするのがいい子、先生に従えば優等生、上司の無茶振りに応えればデキる人。
日本型教育で求められているのは、まさにこういうことだと思います。こういう人材を排出するために教育されてきたのだと、私は自分が受けてきた教育を振り返ってみて感じます。子供達にサッカーを指導してきて、子供たちを見ていればわかるのですが、指導されることに、教わることにあまりにも慣れすぎている気がします。
コーチが言うこと、先生が言うことに無条件に従う子が多い。子供が自分の頭で考えるというプロセスを学ばないからです。この状況に甘んじた大人は考えなくても子供を簡単に従わせることに味をしめてしまいます。
わかりやすさよりも大切なことはなんだろうか
日本ではわかりやすさが過剰に求められるけれど、ドイツではわかりやすさを求めすぎることはダサいという価値観があるという話です。
フランス人の友人がこんな話をしました↓
日本で生活して2年になるフランス人の友人が興味深いことを言っていました。
— Kei Imai (@Keivivito) 2020年8月13日
「日本人はトレンドに非常に敏感だけど、メディアが発信する情報が正しいのか、誤っているのかを精査することができない傾向がある。メディアが発信する情報の精度を高めるには視聴者のレベルを上げる必要があるよね...」
我々日本人の多くが自分の頭でしっかりと考えるというプロセスを蔑ろにしたまま、誰かに、あるいは何かに答えを求めてしまう傾向があると思います。
答えを教えてもらって当然というスタンスは、自分の頭で考えることを放棄しているということ
なにかを教えることの価値が高いということは、なにかを教わりたいというニーズがあるということなのですが、日本という国には過剰なまでに教わりたい人、答えを欲する人たちが多いように思います。
あらゆることに共通することですが、求められているのは自分で考えて行動する力です。自分なりの答えを出すこと。仮説を立て、検証する力、問を立て、答えを作る力が求められています。
そんな時代で苦しむ人が多い理由は明確です。
私たち日本人の多くは、教育の過程で、これらの力を育んでこなかったからです。
自分に必要な情報は何か、自分に必要な能力はなにか、そしてこれからの時代を生きる子供たちに求められる力はなんなのかをしっかりと考えていかなければならないと思います。
サッカーの本質を追求する旅はつづく…