子供を持つ親御さん、または学校の先生はこんな悩みをもっているのではないでしょうか。
「なぜ言うことを聞いてもらえないんだろう。」
「なぜ勉強しないんだろう。」
「なぜ成長しないんだろう。」
サッカーのコーチ、あるいはバスケ部のコーチ、その他教育に関わる人はこんな悩みを持ったことがあるでしょう。
「なぜこの子は教えても教えても上手くならないのだろう。」
大人はどうにかして子供を成長させたいと思います。
しかし、なかなか思うようにいきません。
なぜなら子供の本質的な性質を見落としてしまうからです。
今回はそんな悩みを少し解消してくれる本の一節をご紹介させて頂きます。
10年ほど前、私は思考の整理学という本を読んで感銘を受けました。
この本を読んだ当時のメモに、“教育の本質についての考察”と書かれたページがありました。そのページの一部をご紹介します。
教えることが決して賢明ではないということ
小学校へ入る子供はまだ勉強がよくわかっていない。
どうしたら知識が得られるか見当もつかない。
とにかく、先生にいわれるように勉強しなさい、となる。
ひっぱるものがあるから、動き出す。自分で動くのではない。受身だ。
その延長で、社会へ出てからも、勉強とは、教える人がいて、読む本があるもの、と思い込んでいる。
そういう教育ではいけないのは早くに気づいていたらしい。
学問をしたいという積極性がなければ話にならない。
そういう熱心な学習者を迎えた教育機関、昔の塾や道場はどうしたか。
入門しても、すぐ教えるようなことはしない。むしろ教えるのを拒む。
毎日雑用ばかりやらせる。なぜ教えてくれないのか当然不満を抱く。
これが実は学習意欲を高める役をする。
あえて教え惜しみをする。
そのことをかつての教育者は心得ていた。秘術は秘す。
いくら愛弟子でもかくそうとする。
弟子のほうはおしえてもらうことはあきらめて、なんとか師匠のもてるものを盗み取ろうとする。
ここがねらいであった。
教えることが決して賢明でないということ。
教わるとはどういうことか・・・ いまの学校は、教える側が積極的でありすぎる。親切でありすぎる。何が何でもおしえてしまおうとする。
だから学習者は、ただじっと口さえあけていれば、ほしいものを口へはこんでもらえるといった依存心を育てる。
知識を与えるのに有能であればあるほど、学習者を受身にする。
本当の教育には失敗するという皮肉なことになる。
最近の子供は忙しい。習い事だらけで遊ぶ時間もほとんどない。そんな子が多い。
どれだけの事を、子供が積極的にやっているのだろうか。
本の引用にもありましたが、どんなに教える側が積極的であっても子供が受身でいる限り、成長はのぞめないのです。
好奇心を育むこと
子供が積極的な意欲をみせる時というのは、それに興味があり、好奇心があるときです。
教えることの前にやらなければならないのはそれを面白いと思わせること。
楽しいと思わせることです。
まだサッカーの面白さ、楽しさを知らない子が、大人にサッカーをやらされる光景ほど不自然なものはありません。
サッカーだけではないでしょう。
教えたがりな大人が、子供の好奇心を失わせているケースはたくさんあります。
本当に大切なのは面白さを見せること、伝えることです。
好奇心を刺激してあげる仕掛けを大人の知恵を振り絞ってつくることが求められているのだと思います。
サッカーの本質を追求する旅はつづく…