コーチ時代。
私は、サッカーを通じて大切なことを伝えたいと思っていた。
でもサッカーの捉え方が決定的に異なる人達とたくさん出会った。
サッカーには色んなスタイルがあり、色んな在り方があって良いと思う。
しかし、それがわかっていながらもサッカーを教えている多くの大人たちの有様に私は辟易し、自分が目にした育成現場の有り様に納得することができなかった。
面白い選手を育てたい!という人はたくさんいる。でも、そんな人に限って同じような選手しか育てられない。
そんな人たちをみて私が悟ったのは、面白い選手は育てるものじゃない。
勝手に育つんだと。
だからこそ、いかに勝手に育つ環境をつくるかが大事なんだという考えに至ったわけです。良質なサッカー文化を築いていくにはこれしかないと私は思っている。
もっと多様性を許容し、異質なものに対して寛容になる必要がある。
サッカーは教えるものじゃない感じてもらうもの
サッカーを教えるということは、エラシコをできるようにさせることではなく、シャペウをできるようにさせることではなく、つまりドリブルを誰よりも上手くさせることではない。バルセロナのような美しいサッカーを真似することでもない。
教えようとすればするほどに本質は遠ざかる。
サッカーを教えるということは、その子の本質を引き出すことである。
サッカーというゲームの本質は自分で答を出していくものなんだよということを感じさせてあげることである。
選手の主体性を育むことであり、自立させることである。
目に見えないことの重要性が伝えられてない
子供たちは目に見える表層的なもの、カタチだけしか教えてもらえない。
ドリブルの仕方、パスの出し方、シュートの撃ち方、フェイントの仕方、トラップの方向…
教科書にできそうな、マニュアルにできそうな、教えやすいもの、伝えやすいものばかりがメソッドになりそれがすべてになってしまう。
サッカーの本質を私なりの言葉表現してみる。
センス、それはつまりボールとの関係性。リズム感。タイミング。独自性。感覚。感情表現。多様性…
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サッカーの本質を伝えるためには教える側のセンスや魅力が問われる。
優秀な指導者はサッカーを教えてもバスケを教えてもハンドボールを教えても素晴らしいものを残す。なぜなら本質をしっかり捉えるからだ。表現することの本質を。人間の本質を。
— KEI デザインする7月 (@Keivivito) June 7, 2016
ひととひととはわかりあえない。そのことだけは、わかりあえる。
この本質がわからなければきっと選手を育てることはできないし、面白い表現を生み出すこともできない。教える側のセンスというのは本質を見る目が問われるし、審美眼のない者に魅力などないのである。
サッカーの本質を追求する度はつづく…