私はサッカーをプレーし、サッカーを指導する経験を通じて大切なことを学んだ。
それは私の人生においてとても大切なことだった。
それは”言葉にできない領域の大切さ”だった。
サッカーは言葉で説明できない事象が多発するものだ。
それは人生でも同じなのである。
サッカーとは感情表現であり、感情のぶつかり合いであり、それは論理を超越するものだと私は考えている。
サッカーは心理的な駆け引きである。
相手の出方によって常に生み出される表現は変化する。
相手の殺気の量によって自分の感情の量も変わり、プレーの選択も変わる。
ピッチに漂う空気感によってやるべきことは変化していくのである。
サッカーというゲームは、ロジック以上に”言葉で表現できない領域”が大切なのである。
サッカーはロジックですべて説明がつくもので曖昧にするからダメなのだと考える人が多い… それは人間の本質を、サッカーの本質を見誤っている…
偉人の名言よりも貴重なもの
サッカーが上手くなる為には、自分の感覚に忠実である必要がある。
偉人が残した偉大な言葉よりも貴重な情報は自分の感覚なのである。
今ある情報をリセットしてゼロベースで考えることをもっとしなければならない。
外側の情報ではなく自分の感覚に耳をすませてみる。
心地よいボールタッチの感覚を
素早く次のプレーに移るためのトラップを
トラップなどという言葉に捕らわれず、ボールをいかに早く心地よくスムーズにゴールまで運べば良いのかを自分の心と体に聴いてみる。
自分の感覚に忠実になれない人間はサッカーをプレーすることも教えることも不可能だ。
サッカーで大切なことは再現できないものの追求
言語や論理で再現しにくい領域、もうちょっと人間側から言うと、テンションが上がったり、すごい感動したり、何らかのインパクトを受けるんだけど、その感動を言語で説明したり、論理で説明したりできないような領域、もしくは説明したところでほとんど意味がない領域──、そういうものは、説明しにくいがゆえに再現しにくい、ゆえに再現方法を共有しにくい、再現方法が共有しにくいがゆえに差異を生むということです。競争の差異を生むがゆえに、そういう領域が競争力の源泉になっていく
本当は、サッカーというものは説明がしにくいがゆえに再現しにくい。
そして再現方法が共有しにくい方が良いと私は考える。
多くの人が簡単に再現できそうな手軽なものを探しているような気がする。
これはサッカーだけに限らないけれど…
本当に大切なのは誰にも再現できない自分だけの表現を手に入れることなのだと思う。
そのために、常識を疑うべきだと思うし、無知の知を大切にすべきだと思う。
無知の知とは、どんなに知識を持っても理解できないことは常にたくさんあるというスタンスのことだ。
何かに満足して安住を求める人間に魅力ある人間はいない。
サッカーの本質を追求する旅はつづく…
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