人はそれぞれ異なる色を持っている
染色工芸という色を染めることを専門にしている職人さんの話を聞いて面白かったのが、ひとつひとつどんなに丁寧に作業をしても全く同じ色に染まらないという話だった。これは人間にも同じことが言える。人間は2種類に分かれる。すべてを同じ色に統一しないと気が済まない人間とひとつひとつ違う色が生み出されることが美しいと感じる人間だ。
私は完全に後者である。全く異なる色たちが調和する瞬間が一番美しいと思う。
サッカーの本質の前に人間の本質を考える
サッカーの本質を考える前に人間の本質とはなんだろうかと考えなければならない。人間というのはひとりひとり異なる。頭の使い方も、身体の使い方も、走り方も蹴り方も、すべてが違う。
その前提を踏まえた上で、サッカーを教えるときに、教科書どうりのボールの蹴り方を教えることに意味はあるのだろうか。みんながベッカムのようにボールを蹴れるようになることが素晴らしいことなのだろうか。
私は疑問だ。
サッカーは”創造”なのである
私は確信を持っていえることがひとつある。サッカーは”創造”することである。
創造できる大人が創造できる子供をつくり、サッカーの新しい在り方を創るのだと思う。メソッドを熱心に学ぶことよりも、誰も考えないようなことを考え、いままでにないドリブルの在り方を、いままでにないパスの出し方を創造した方がいい。
子供に情報を与えすぎている。だから創造力のないプレイヤーばかりになる。
サッカーは人と同じじゃ価値がない
私は人と同じことが嫌なのである。いままでもずっとそうだった。これからもずっとそうだと思う。みんながバッジョに夢中だったときゲオルゲハジに夢中だった。みんながジダンに夢中だった時、リケルメばかり見ていた。
本能的にわかっていた。誰かと同じことに価値がないということを、誰かと違うからこそ価値があるのだと。
誰かと同じことを考えてたらなにも生み出せない。
自分だけの世界観を持つということ
自分の世界を持っている人が好きだ。
自然体でいまを生きている人が好きだ。
カタチにならないものを大切にできる人が好きだ。
物事の本質を考えることができる人が好きだ。
そしてそう在りたいと思う。
— KEI 辛抱の11月 (@Keivivito) 2015, 12月 13
自由への一歩は、捉われないことだ。
常識やルールに捉われないこと。
いままでの社会の在り方に捉われないこと。
いままでのサッカーの在り方に捉われないこと。
サッカーの本質を追求する旅はつづく…
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