真実とは”ありのままに存在するもの”
インサイドキックの蹴り方とかシュートの打ち方とかを一生懸命教えている若いコーチがいて、それを外から輝く目で見ているママさんたち。そんな風景を微笑ましく思えない私はただのひねくれ者なのかもしれない。
ちゃんと”教えてくれる人”と”しっかり教わる子供”。その設定だけが健全のようにみえるけれども、そこに真実はない。市場で求められているのは、誰もが健全だと思える光景だけで、中身なんて空っぽの場合が多い。
サッカーのコーチが世の中に求められているのはそんな健全な光景だけである。しかしサッカーはそんなもの求めていない。サッカーの本質をしっかり学び理解しなければ、世の中の嘘に振り回されるだけだ。
世の中を作っているのは人だ。人は綺麗なところしかみようとしない。真実は美しさと醜さを内包している。人は真実の醜さを削り取って正しいものに作り変えるが、真実の美しさも失っていることに気づいていない。
真実とは”ありのままに存在するもの”だ。
サッカーとはなんだろうか。
サッカーとはボールをゴールに入れることを競い合うゲームであり、それ以上でもそれ以下でもない。
自分で絵を描くこと
南米のユルさと日本の精巧さ、その2つの文化に触れて感じるのは勤勉さが仇になっている場合があるということだ。
日本人は勤勉である。勤勉な日本人は多くの本を読みセミナーや講演会に足を運ぶことに時間を費やす。しかし、次第に自分でものを考える力を失っていく。
どちらの道が損か得か、有利か不利か、そんな基準ばかりで物事を選んでいると、人間味なんて簡単に喪失してしまう。私は「どうすれば有利に生きていけるか」よりも「どうすれば生きている実感を得られるか」という話がしたい。損得勘定を突き詰めた先に、生きている実感があるとは思えない。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015年5月17日
期待は自分自身に寄せるものであって、他人に寄せた瞬間に甘えになる。誰かの考えや思想に真実はない。本や情報というのは絵である。絵を見て、自分がなにを感じたかがすべてであり、絵に真実はない。
自分にとってサッカーという”絵”はなんなのか、自分の”絵”を描かなければならない。
サッカーの本質を追求する旅は続く