人が生きていくってどういうことか、人間がどう暮らしてきたのか、そんな大切なことを学校教育ではまったく学んでこなかったと、島根半島やエチオピアで思い知りました。自分で見聞きしたことが世界のすべてだと信じていたのに、その外側にまったく知らない世界が広がっていることを実感させられる。そうすると、自分をとりまく世界の見え方が大きく変わって、「わたし」という存在がもう一度つくりなおされていく。そんな揺さぶりを受けました。
なぜ、南米や欧州のサッカーと日本のサッカーはこんなにも違うのだろう。
サッカーとはそもそもなんだろう。
言葉も、思考回路も、食生活も、すべてが違う人々と同じピッチでプレーするってなんて興味深いことなんだろう。
そんなふうに考えるようになって、日本を出て、海外で生活してみると、日本の良さ、ダメなところがたくさん見えるようになって、サッカー以外の多くのことを身をもって学び、結果的にサッカーをより深く知ることができたように思います。
サッカーは、人間がやるスポーツです。
人間は多種多様で、実に個性的で個別性があり、また、社会によって育まれていきます。社会は実に多様です。
社会の中にある文化、価値観をもとに人間は育まれていきます。
文化、価値観は実に多様です。
文化、価値観によって、ピッチで生み出される表現が変化します。
表現は、実に多様です。
感情の表出、プレーの判断、同じルールなのに、やり方も考え方も違う。
それでも、世界のどこへ行っても、言葉が通じなくても、ボール一つあればコミュニケーションを取ることができる魔法のような遊び、それがサッカーの魅力です。
日本を出ること
私は、日本という国を出たことによって、日本を知ることができたと思うし、サッカーをより深く知ることができたと思います。
外国語を学ぶことで、日本では表出しなかったもう一人の自分が発見できたように思います。
これまで抑圧されてきたなにかが解放されて、潜在的に感じていたことが言語化できる瞬間がありました。
日本という島国で育まれた価値観が通用せず、常識というものがどんどん壊れていく。その国の常識、ルールを学ぶことで社会は多様であることを知り、異国の人間と生活をすることで人間の多様性を知ることができました。
サッカーは、多様な人間が一つの目的を達成するためにプレーするものである。という当たり前のことを異国の地で体感できた。
頭で理解するのと、体で理解するのとでは、天と地ほどの差がある。
これを体感するために、日本を出てほしいと思います。
同質性を求められる社会と、異質性が尊重される社会
日本という島国は、異国の文化が入ってきにくいために、多様性の本質を理解できません。頭で知っている人はいても、体で理解している人は少ない。
もし、体で理解している人がいるというのであれば、ここまで同質性の高い教育になっていないはずです。
私たちのサッカーは極めて同質性が高く、同質性が高い社会の上で成り立っているサッカーであるという前提を理解する必要があります。
同質性が高いということは、多様性が低いということでもあります。
個性が出てきにくい教育、社会であると言えるかもしれません。
個性を尊重する社会の上にあるサッカーと、そうではないサッカーの違い。
これを体感することで、世界の見え方、サッカーの見え方が変わります。
ジェンダー問題、差別問題は人間の歴史、民族史、人類学を知ることで本質が見えてくるように思います。
つまり、サッカーを知るということは、社会を知るということでもあります。もっというと、人間を知るという好奇心なしに、サッカーの本質は見えてこない。
※このテーマは後日深く掘り下げて改めて執筆します

- 作者:ガイ・ドイッチャー/椋田 直子
- 出版社:早川書房
- 発売日: 2022年02月16日頃