「カルチョの休日 イタリアのサッカー少年は蹴球3日でグングン伸びる」
この本には、イタリアのカルチョ(サッカー)のある日常が描かれているのですが、サッカーが愛されている理由がとてもよくわかります。
読んでいると、サッカーってこうやって楽しむものだよなという、我々日本人が置き去りにしてしまっているものが見えてくるような気がします。
”遊び”を忘れてしまってはいけないなと、改めて。
日本のみなさんは、サッカーをちゃんと「遊んで」いますか?
イタリアの大人たちは、子どもたちに説教したり、難解な戦術を押しつけたりすることはありません。そんなことに貴重な時間を費やすくらいなら、子どもたちを”へとへと”になるまで遊ばせてやろうと考えています。
サッカーが上達するには、厳しい練習をやらせるよりも、本人が夢中になって打ち込むことが何より大事だからです。
つまり、サッカーで大切なのは遊ぶこと。
遊んで遊んで遊び倒す中で、子どもたちはグングン伸びていきます。
サッカーを訓練されてきた僕らは、”遊び”を理解するのが難しい
日本のサッカーには遊びがない、ヨーロッパや南米の仲間とサッカーをすると、そう言われることがあります。
遊びとはなんでしょうか。
相手の逆を取るフェイント、意外性のあるプレー、それは遊び心から生まれます。
サッカーを訓練されてきた僕らは、それを理解するのが難しいように思います。
生きていくために、社会に適応するために訓練されている国と、
生きていくために、自分に適応するために好奇心と主体性を育んでいく国と、
フットボールが違うのは当たり前のことかもしれません。
機械的なフェイントをする子どもや、機械的なリフティング、ドリブルをする子どもを見ると、ああ、教えられているな、やらされているなと感じます。
自然体で、自分のリズムでボールを触れる子を見ると、ああ、自分のフットボールをクリエイトしているなと感じます。
サッカーを訓練するのではなく、サッカーを遊べるようにするには、どうすればいいのだろうと、考えないといけないように思います。
日本は日常に”遊び”が少ないから、遊ぶための余白が少ないから、余白がないから寛容性も低いから、、
意図的に余白をつくらないと、遊びは生まれないのかもしれない。そして、余白がないと寛容性は生まれないのかもしれません。
精神的余白。
これが、日本には足りない気がします。
みんな忙しい。忙しくないといけない。助けてもらえない。助けてと言いにくい。余白ってなに?という状態ではサッカーに遊びは生まれにくいのかもしれません。
もっと遊びましょう。
遊んでもいいと思えるように。
人生に遊びが必要なように、サッカーにも遊びが必要なのだと思います。