
公園でボールで遊ぶ子どもを、あまり見かけなくなった。
それは、たまたま私の生活圏だけの話かもしれないし、たまたま私がそういう景色を見ていないだけかもしれない。
でも、公園には「ボール遊び禁止」の看板が増えて、学校の校庭は鍵がかかり、サッカーをやる場所は「お金を払って通う場所」の方が主流になってきた。
子どもたちは、空き地じゃなくて、スクールに通う。
決まった曜日と、決まった時間と、決まったメニューの中で、サッカーを「習う」。
それはそれで、悪いことじゃない。
悪いことじゃないんだけれど、どこかでずっと、引っかかっている。
正しさまみれのサッカーに、反逆のドリブルは生まれるか?
正しいポジショニング。
正しいボールの運び方。
正しい立ち方、正しい身体の向き、正しい判断。
サッカーはどんどん論理的になって、
最新の戦術やメソッドが、タイムラインを流れていく。
スクールのコーチには、限られた時間がある。
グラウンドは高い。ナイターも高い。
「この時間内に、これだけは伝えなきゃ」と思えば思うほど、どうしても“教えるサッカー”になる。
その現実も、よく分かる。
でも、
「その環境で、本当に“常識を壊すプレー”は生まれるんだろうか?」
という問いは消えない。
教科書を燃やしてしまうようなプレーは、どこからやってくる?
常識を壊すプレーというのは、たぶん
「こうするのが正解です」を、ちゃんと分かった上で、
それでもあえて、斜めに裏切ってくるようなやつのことだ。
そこから行くのかよ、と笑ってしまうドリブル。
その角度で通すのかよ、とため息が出るパス。
そんな運び方ありなのかよ、と世界の見え方ごとずらされるボールタッチ。
ああいうプレーは、
正しいことだけを積み上げて到達する場所、とは少し違うところからやってくる。
教科書の「この場合はこう」が身体に染みていることよりも前に、
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意味もなく、何度も何度も同じフェイントを繰り返した時間とか、
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とりあえず一回仕掛けてみたら、たまたま抜けてしまったときの感触とか、
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「もう一回、あれをやりたい」と思って自分で自分に中毒になるような感情とか、
そういうものから、じわじわ生まれてくる。
そこには、誰かに「教わる」のとは別の、
誰にも邪魔されない「遊び」と「余白」が必要で。
その「遊び」と「余白」を、
今の社会はどれくらい、子どもたちから奪ってしまっただろうか。
アルゼンチンから飛んできた、一発ぶん殴るような文章
この感覚を言語化してくれたのが、アルゼンチンのサッカーメディアの記事だった。
アルゼンチンでも、最新の科学的なメソッドが入ってきたことで、
空き地サッカー(ストリートサッカー)の時間が減っているという。
その結果として、
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ドリブルで仕掛ける子が減った
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ボールを失うことを、過度に怖がるようになった
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「パスしろ! ワンタッチだ!」と怒鳴る声が、子どもの創造性を条件づけている
そんな現場の声が、淡々と書かれていた。
「習い事サッカー」の影で、遊びの火が消えていく
日本でも、
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ボール遊び禁止の公園の増加
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学校の校庭の閉鎖や時間制限
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サッカー=スクールやクラブでやるもの
という流れが、確実に進んでいる。
「サッカーはこうやってプレーする」という枠組みの中だけで育ってしまうと、
サッカーの面白さは半分以下になる。
そして何より、創造性が発揮される場が極端に限られてしまう。
これは選手の問題ではなく、構造の問題だ。
大人が環境ごと、遊びと余白を削ってきた結果とも言える。
マラドーナもリケルメも、最初のスタジアムは空き地だった
アルゼンチンには、
マラドーナがいて、リケルメがいて、ダレッサンドロがいて、テベスがいた。
彼らのプレーは、
「正しいかどうか」よりも先に、
「なにそれ」「そんなのありかよ」で構成されていたように思う。
見たことないドリブル。
見たことないボールの持ち方。
見たことないゲームの作り方。
あの“異端”は、
グラウンドよりも先に、空き地で育っていたのかもしれない。
教科書よりも先に、
土と、石ころと、ガタガタのゴールポストと、
文句を言ってくる近所のおじさんと、
夕暮れと、「次、ラストゴールな」と言いながら全然終わらない試合の中で。
遊びも余白もないサッカーなんて、もうロックじゃない
「じゃあ、どうすればいいんですか?」と、きっと誰かに聞かれる。
正直、私にもまだ分からない。
ただ、はっきり分かるのは一つ。
このまま「遊びと余白のないサッカー」が当たり前になってしまったら、
私たちはきっと、何か取り返しのつかないものを失うかもしれない、ということ。
だから、もう少しちゃんと言葉にしておきたいと思って、
アルゼンチンの記事を引用しながら、一本のnoteを書いた👇
もっと“壊れてていいサッカー”の話をしよう
このnoteでは、
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なぜアルゼンチンで「空き地サッカー」が問題提起されているのか
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科学的メソッドが入ることで、何が良くなり、何が失われたのか
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日本の「習い事としてのサッカー」とどこが重なっているのか
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私たちが、これから子どもたちにどんな“余白”を返していけるのか
そんなことを、もう少し深く掘り下げています。
サッカーが上手くなることは大事。
でも、サッカーが「好きなままでいられること」は、もっと大事だと私は思う。
好きでいられるサッカーの中には、
必ず「遊び」と「余白」がある。
正しさを学ぶ時間も必要で、
ただひたすら遊び倒す時間も同じくらい必要で。
今のサッカーは、その片方に寄りすぎていないか。
そんな違和感を持っている人と、
一度ちゃんと、この話を共有したい。
もし、あなたのどこかにも似た感覚があるなら、
ぜひ、noteの方も👇