これまでの人生で数多くのサッカー選手を観てきた。
才能のある選手が活躍するプロサッカーの世界。
その中で天才と呼ばれる選手、怪物と呼ばれる選手というのはすべてにおいて圧倒的なのだ。
ピッチに佇む独特の雰囲気… 天才が放つオーラ… 怪物が発する圧倒的な冷気…
対峙する相手は常軌を逸したその存在に恐怖する。これまでに自分自身の全てをぶつけても全く歯が立たない相手に遭遇したことがないからだ。次々と抜き去られていく仲間たち、反則をしてでも止めてやろうと、意を決して飛び出したものの、間近に迫った怪物を前にできることなど何もないことに気がつく。
止めることなどできない。止まることを祈るしかないのだ
ロナウドが通った後には一流と呼ばれた男たちが無気力に横たわる
真剣勝負のピッチの中で対峙して、はじめて悟るのだ。
「生きてきた世界が違う」と…
圧倒的な才能を前に悔しいなどという気持ちは生まれないのだ…
賢い人間は瞬時に察することができる。
全く異なる世界観の中で育まれたものだということを。
論理を超越した才能を前にして、頭で考えては何も見出せずに終わってしまう。
頭で理解できるものではないのだ。
目の前にいるのは論理を凌駕した存在であり、それは何者かに教育されて世界のトップに登りつめたエリートには理解が困難な存在なのである。
圧倒的な才能の前に我々は引き立て役にしかなれない
マラドーナの美しく、柔らかいプレーはフットボールをアートの域にまで昇華させた
創造する余地こそが圧倒的な才能を生み出す
圧倒的な才能は、なにもかもが整っておらず、常に満たされることのないピッチで育まれるのだ。そこはピッチではないかもしれない。そこをピッチと定義づけることができるのはそこにいる者だけなのだ。ゴミ袋を靴下に詰め込んで丸くしたモノをボールと定義づけできるのはそこにいる者だけなのだ。何もかもが整っていないということは想像する余地があるということであり、創造する余地があるということだ。
そして圧倒的な才能は創造する自由のなかで制御されることなく本能的に、感情的に、野性的に自分の表現力を磨き続けることができる。そこには何者かが制御する余地がないのである。それ故に、圧倒的な才能は勝手に醸成されるものなのである。才能を開花させる者というのはただ機会を与えたに過ぎない。しかしそれこそが賞賛に値することなのである。
サッカーの本質を追求する旅はつづく…
スポンサードリンク