エリック・カントナという男
この男のプレーを見たことがあるだろうか。凄まじい気性の荒さと、美しく優雅で華麗なプレーで世界を魅了した男である。彼はあるがままの自分をさらけ出し、断じて矯正されることはなかった。常に自分のピュアな心や感性を大切にし、それ故に美しい表現ができたのだ。何かに縛られてはいけないということを本能的に理解していたのだ。
彼の凄まじいプレーを見てみよう。
『世間では普通と違う人間を異常と呼ぶ。私はそう呼ばれることを誇りに思っている』
これはカントナの数ある名言のひとつである。
この言葉はサッカーやそれに類するスポーツで表現しようとする者のためにある言葉だと思っている。サッカーを自分らしく楽しむためには自分らしいプレー、自分がこうありたいという理想のプレーを追求し続けなければならない。多くの大人は誰かと違うことを批難するがそんな言葉に騙されてはいけない。そんな言葉に負けてはいけない。
挫けそうになったなら、カントナを見ろ。
『チームなんてどうでもいい、俺が目立てばいいんだ』
チームのルールに縛られて、本当の自分を表現できないのならそんなチームどうだっていい。私もそう思う。チームというのは選手一人一人が最高の表現をするためにあるものだと思うのだ。チームのために一人一人が機械のようなプレーしかしないのならそんなものサッカーじゃない。
『俺の墓石には、どんな言葉も刻んでほしくない。まっさらな石のままでいい』
ピュアでいること。周囲の人間にどんなことを言われようとも、決して失ってはならないものがある。それは君が感じる心である。君の持つ感性である。心を失ったとき、感性を失ったとき、本当の美しさは失われる。誰になんと言われようが自分の中の大事なものは失ってはならないのだ。自分を装飾する必要なんてない。ありのままの自分をさらけ出して生きていくこと。あるがままの心と感性をベースにサッカーを表現することが大切なのである。生まれた時と同様、死ぬ時も自分はまっさらな石なのだ。
サッカーの本質を追求する旅はつづく…