サッカーはボール一つで自由を獲得する夢である
ファベーラの風景を見ていると、美しいと感じる。
なぜ、美しいと感じるのだろうか…
貧しさの中にサッカーがある光景が私は美しいと感じる。
それはなぜだろうかと考えると、”生きる”ことにサッカーが寄り添っているからなんじゃないかと思った。貧しくともサッカーはボールと身体があれば楽しめる最高の遊びなんだから。そして子供達はボールと身体で自由な表現を獲得していく。
”生きる”ということにサッカーが寄り添っている
生と死が寄り添っていてはじめて芸術になる。私はそんな気がする。芸術家は本当の芸術作品を生み出すまでに死ぬほど貧しい生活を送るという。それはきっと生と死の本質を自ら感じる必要があるということを芸術家は本能的に理解しているからなのではないだろうか。
ファベーラの子供達はなにももっていないかもしれないが、”生きている”と思う。
そして彼らは美しい。
サッカーは最高の遊びであり、ボール一つで自由を獲得する夢である
私が感じる美しさは”あるがままの人間の姿”であり、”生きている様”なんだと思った。
サッカーは人々に生きる力を与えてくれる。人間の本質を思い出させてくれる。あるがままの自分を晒け出すことができる。
私はファベーラの風景を見ていると芸術だなアートだなと思う。
様々な色が入り乱れた美しい景色。サッカーが生きている景色。美しさの中にある生活。生活の中にあるサッカー。
ただただ美しいと感じる。
街のど真ん中のサッカーコート
中南米のメキシコ、グアテマラを一人旅したときに驚いたのは街あるいは村のど真ん中に小さなサッカーコートがあって毎日試合をして人々が集まっている様だった。
日本という経済的に恵まれている国にはなくて、貧しい国に存在する羨ましすぎる光景だ。これこそ光と影だと思う。
貧しくとも”サッカーが生きている”と感じる。
サッカーを壊してはならない
サッカーを生かすにはサッカーの本質を知らなければならない。サッカーは何かの枠にくくられるものではなく。ただただそこに存在するものである。伝え方を間違えた瞬間にサッカーはサッカーでなくなってしまう。サッカーを壊してはならない。
サッカーの本質を追求する旅はつづく…