休日になると近所の中学校でサッカーの試合が行われている。
私はよく足を止めて試合を数分眺めるのが日課になっている。
ベンチに座る先生の声がピッチに響き渡る。
「サイドバックもっと開け!」、「いまのなんでパスしないの〜?」…
それを言われた選手たちの反応は2パターンある。
「はい!はい!」と従順な選手。
うるせえな黙っとけよ!という反応をする選手。
私が中学生の頃は完全に後者だった。
先生に好まれるのは従順な選手だろう。そして後者は干されるものです。
私は中学生の時にまさにそんな状態だった。試合で怒られるのはいつも自分。
その先生に言われた言葉に納得することは一度もなかった。
私は”こいつは自分のことを理解しようとしていないし、サッカーのこともわかってない”とずっと思ってた。そしてその先生はずっと変わらなかった。
・選手の心を見ること
・サッカーの本質を理解しようとすること
少年サッカーの現場を10年近くみてきて感じているのは、この2つの要素が欠けている指導者があまりにも多いのではないかということです。
自分の価値観をただただ押し付ける指導者や表面的なテクニックやスキルをマニュアル化するのが得意な指導者は大勢いる。
見ればわかります。指導者が試合中に発する言葉をしばらく聴いていればわかってしまいます。何を考えてるのか、何を知っているのか、何を伝えようとしているのかだいたいわかります。
有り難いことにこれまでに素晴らしい指導者の方々との出会いにも恵まれました。
私が素晴らしいと感じる指導者に共通しているのは、サッカーを知ろうとする好奇心を持ち、人を知ろうとする心を持っていることです。
サッカー指導者に求められる2つの心
1,選手の心を見ること
指導者は選手の心を知ろうと努めることができなければ存在する意味がない。
しかし、これをないがしろにする大人が実に多い。
チームが表現するサッカーは最初から決まっているものではない。目の前にいる選手たちの心、人間性、スタイルによって表現されるプレーは変化するものです。
自分の好む戦術に選手をはめ込もうとする指導者は少なくとも育成年代には不要だ。
指導者に求められているのは選手の良さを引き出すことであり、教えることでは決してない。
2,サッカーの本質を理解しようとすること
サッカーというゲームの本質を知る人は実はあまり多くない。
なぜ私がそう感じるかというと、多くの少年たちのサッカーを見ていて決定的に”駆け引き”という要素が欠落しているからだ。指導者と名乗る大人の声に従うがまま、目の前のボールを決められた場所へ蹴るような機械的なことをするチームが実に多い。
サッカーは遊びであり、駆け引きであり、コミュニケーションであり、つまりプレーする人々の感覚や感情が表現の源泉になるのだ。だからこそ自分を表現する力を養わなければならない。
サッカーはそれを表現する者が主体的でなければならない
目の前の相手と駆け引きするには、主体的でなければならない。自分で判断し決断ができなければならないし、自分の感覚や感情をある程度、制御できなければならない。それができなければ駆け引きなどできないのだ。
大人に求められていることは、自立を促すこと、主体性を育むことだ。
教育の本質が、主体性を育むことであるならば、サッカーを通じて人を育てることができている指導者がどれだけいるだろう。
サッカーの本質を追求する旅はつづく…
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