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大人になってから学ぶサッカーの本質とは

日本にいながら外国人リーグでプレーする私の目から見るサッカーの本質とは… 元サッカー選手、元サッカーコーチ、中南米放浪サッカー経験者として好き勝手語らせて頂きやす

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サッカーは「~しなければならない」から自由になることからはじまる 〜個性を許せる人間でありたい〜

サッカーのある風景 ”生きる”こと
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「〜しなければならない」から自由になるということ

ルールは何のためにあるのか。私が思うに人と人が円滑に生活を営むためにあるものであり、本質的には世の為、人の為にルールが作られている。もっとこうしたら良くなる。もっとこうしたら素晴らしい。というとても前向きなものであるはずだ。

 

しかし、ある日ふと気づく。良かれと思って決めたルールに縛られて自由がないという事実に。ある時ふと気づく。人々はみな「~しなければならない」「~すべきである」「~であるべきだ」に縛られているということに。

 

 

誰かと一緒じゃなくたって別に良い

そしてそれは集団の中で生き抜くための知恵であるのだけれども、結果的にそのマインドが大量生産されてしまった。そして個性は失われ集団主義社会といわれるまでになった。この流れは破綻しつつある。一見健全に見える社会だが、多くの人々の心は死に瀕している。莫大な数の自殺者。莫大な数の精神病患者が増え続けている。

 

 

なぜこれが生まれるのかと言えば、自分の存在を否定され続け、同調圧力という名の暴力が正義の仮面をつけていたるところに出没するからである。こいつらの正体は恐ろしいことに多くの庶民の中に潜んでいて、家族や大事な友人の中にも潜んでいることがある。正体が分かり難いのである。そんな得体のしれない悪魔に殺されない為の方法がある。

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許せる人間でありたい

それは常識やルールを疑うことだ。おかしいのは自分ではなく周りなのであるという根拠を自分で探しだすことだ。社会は人で作られ運営されている。実に多様な人間がいて、寛容な人間もいるし、不寛容な人間もいる。その2種類にざっくり分けた場合に世の中は”不寛容”な人間が7割くらいなのである。(そんな気がする)不寛容というのはルールを破るものに対して、あるいは普通とは違うのも対して、許せないということである。私は許せる人間でありたい。

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他人と違う個性に対して寛容である必要がある

サッカーでも同じことが言える。時に圧倒的な個性はチームの為にならないと考える人がいる。プロの世界ならまだしも、育成年代でチームの為に個性を丸くしてしまうことはメリットよりもデメリットの方が多い気がする。

「~しなければならない」「~すべきである」「~であるべきだ」というフレーズは不用意に口にしてはいけないのだと思う。

 

keikun028.hatenadiary.jp

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サッカーの本質を追求する旅はつづく…

 

 

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