本は時に最高の自己投資になる。良い本との出逢いは人との出逢い同様に素晴らしい。だから賢人は本に莫大な金額を投資するんだと思う。今日お伝えしたい内容の一部は本の一節にすぎないが、その言葉と出会って自分が感じたことは大きな意味があると思う。私は本を読み続ける。考え続ける。そして描き続けたい。
人に何かを”伝えること”や”教えること”の本質について考えてみたい。
教育とは生徒の資質を見いだすこと
福沢諭吉先生は「教育とは教えることではなく、学生の持っている資質を見つけ出して伸ばすこと」とおっしゃった。
他人の資質を見つけるにはどうすれば良いのか。これまた観察なんです。
絵を描くことと同じで、素直になって相手の資質を見る。それしかありません。教育も観察から始まる。
例えば、この学生は色のセンスがいいなと思ったら、あえて微妙な色の写生を課題に出します。白いホーローの皿に食パンと卵を載せて、白い色を描き分けてみろという。その学生はじっと観察し、自分なりに答えを出す。私はそれを見て講評する。
これは日本画家の千住博さんの話の引用になるのだけれど、サッカーを誰かに伝えることも同様であると思う。教えるのではなく課題を出す。状況を設定する。そして何を感じて表現したかを観察し講評する。指導者や大人が口うるさい現場に本質はない。決定的に観察する行為が欠けている。
「考えさせる」のではなく「観察させる」こと
指導の現場にいたころ、”子供に考えさせなきゃいけない”と盛んに巷のコーチたちは言っていたけど、私は違和感を感じていた。もちろん考えることは重要なんだけど、無理やり考えさせるのは不自然だし、「考えろ」という言葉がダサいと思った。考えることの発端は好奇心だったり、疑念、疑問だったりするはずで、それは自分の内側から出てくるものだ。大人の役目は”考えさせる”のではなく”観察させる”ことなんだと思う。
人が感動するのは芸術ではなく芸術家の姿
私は人が絵画に感動するのは、絵画の中の色や形がきれいだからではないと思っています。色がきれいで感動するなら、色見本を見ても、人は涙を流すはず。しかし、そんなことはありえない。人が感動するのは芸術家の姿です。芸術家が不屈の精神で作品を作り、それを人に対して訴えかけていく姿に感動する。色がきれい、形がきれいといったそんな甘いもんじゃない。打たれても打たれても相手を説得する不屈の精神に、人は感動し、勇気付けられる。
私たちは美しいプレーを観たいと願っている。しかし、美しいプレーとは色や形が綺麗なプレーではない。バルセロナの美しいパスサッカーの本質は不屈の精神で作り上げられた作品のひとつである。ネイマールの美しいプレーの数々は打たれても打たれても相手を説得する不屈の精神そのものである。表面的な美しさに捉われず本質を観察することが大事なんじゃないだろうか。
サッカーの本質を追求する旅はつづく…