大人になってから学ぶサッカーの本質とは

サッカーの本質を追求するWebマガジン 考えるよりも感じることを大切に 美しさとは何かを感じる心を大切に 大切なものを失わない為に書き綴る                    ※当ブログはプロモーションが含まれています

ボカジュニアーズの子供たちの球際の表現力に思う

f:id:keikun028:20150527173642j:plain

 

先日行われた国際ユース大会で感じた世界との違いは”自分を表現する力”と書いた。

その時のエントリーがこちら↓

keikun028.hatenadiary.jp

 

球際の重要性が声高に叫ばれているけれども”強さ”とか”上手さ”の土台になっているのは紛れもなく負けたくない気持ちであり勝ちたい気持ちであり、感情表現である。すなわち自分を表現する力に他ならない。

 

球際の表現力

球際の表現力はどうやって培われるかというと戦いの中で気持ちを刺激し、激しく削りあう中で、ハイプレッシャーの中でいかにボールを失わない術を磨けるかにかかっている。

 

下の動画はずいぶん前にボカのジュニアが来日した際のものである。静岡(清水)の選抜チームと試合の一部だけれど、静岡の子供達の寄せにまるでプレッシャーを感じることなく気持ち良い表現ができるのも、普段のトレーニングの球際の厳しさが違うということだろう。

 

 

厳しく激しい球際の戦いの中で磨かれる

こういうスキルは激しくて厳しい球際の戦いの中で磨かれるものだ。敵が近くにいてもどうってことない。ここにボール置いとけばとられない。いつでもボールを動かせるところに置いておけばいい。相手がきたらフェイントで時間作ればいい。そんな感覚が自然とみにつくわけだ。

美しいプレーは戦いの一部であり最高の自己表現の結果である

美しいプレーをしてやろうと思ってプレーしている選手はボカにはいないだろう。戦いの中で洗練された幾つかの技の一つが結果として美しい表現となるに違いない。ボレーシュートもオーバーヘッドもクライフターンも勝つために編み出されたにすぎない。

 

サッカーを追求する旅は続く…

 

サッカー指導者に求められる一番重要なこと

 

f:id:keikun028:20150526182236j:plain

サッカーの指導者に求められる能力とはなんだろうか。

サッカーを長年やっている人でも、指導者に向かない人もいるし、サッカーをまったくやったことがない人でも指導者に向いている人はいると私は考えている。バルセロナの育成年代の指導者のお話を聞いてみましょう。

 

www.youtube.com

 

インタビューの一部を抜粋してみよう。 

選手一人一人に対し、3つの要素を見極められること

⒈人間性

⒉判断力

⒊サッカー選手としての要素

 

その中でも特に重要なのが”人間性”を教育できる豊富な人生経験である。

 

人としての成長がなにより大切

イニエスタも「下部組織にいて一番大切だったのは年を重ねるごとに人として大きく成長できたこと」だと言っている。

「下部組織での様々な経験の中から仲間との絆や人との共存を学んだ。スポーツ面においてはサッカー選手としてだけど、やはり人格形成が一番大きかった」

f:id:keikun028:20150526183459j:plain

 

世界のトップクラブであるバルセロナが一番大事にしているのは”人間性”

サッカー選手として、サッカーに関わる人間として一番大切なことは、サッカーが上手いことでも、戦えることでもなく”人間性”だということ。僕たちは子供達以上に学び成長していかなければならない。

 

サッカーの本質を追求する旅は続く…

シメオネの選手のポテンシャルを解放する練習

f:id:keikun028:20150525164715j:plain

シメオネの情熱

 

スペインに君臨するバルセロナレアルマドリードという絶対的な2強を倒せるまでになったアトレティコマドリード。そのチームの指揮官、ディエゴ・シメオネの情熱的なプレーや立ち振る舞いは圧倒的で多くのサッカーファンを熱狂させているが、やはりアトレティコの練習でもすごかった。

 

 

シメオネの発する声を聞くかぎりこの練習はポゼッションというよりディフェンスの訓練だ。「Va! va!(行け!行け!)」「cortarla!(断ち切れ!)」「Dale!(出せ!)」「Pasala!(回せ!)」「Vas a precionar(プレッシャーかけろ!)」

 

トレーニングに”入る”ということ

シメオネが作り出す雰囲気がチームの雰囲気そのもの。練習で100%”入る”ことの積み重ねが世界のトップと戦えるレベルにまで引き上げている。自らも選手たちも集中状態に”入る”ことであり、戦いに”入る”ということである。

 

このトレーニングの雰囲気を感じるだけでも大いに学ぶことはあるし刺激になるはずだ。

 

サッカーを追求する旅は続く。

 

 

 

サッカーの本質に迫る素晴らしくマニアックなサッカー漫画

f:id:keikun028:20150525150332j:plain

 

 

今年、ものすごく面白いサッカー漫画に出会ってしまった。サッカーの本質に迫る素晴らしくマニアックでサッカー好きにはたまらない内容だ。これはサッカーのセンスがなければ描けない。要チェックですぞ!

 

その漫画がこちら↓

 

フットボールネーション

 

選手と感動をともにするということ

f:id:keikun028:20150523014150j:plain

サッカーは戦いである

これまでサッカーに必要な要素などを書いてきたけれども、それらは全て”勝者のメンタリティ”という土台なしには全く役に立たない。サッカーは相手を打ち負かすことが第一の目的だ。戦えない選手はいらない。ピッチでカッコイイ自分を演出することが目的だったり、頑張らないことがカッコイイという感覚の選手に未来はない。

ありのままの自分を全部出し切ることではじめて認められる

いま私は南米出身者が多く所属するチームでサッカーをしているが、上手いとか下手とかよりも”戦えるか否か”という部分がまず重要視される。当たり前のことだが、戦えないと”仲間”として認めてもらえない。サッカー選手は戦士であり家族である。そんな気持ちにさせてくれる。

 

熱い気持ちを伝えることが一番難しい

f:id:keikun028:20150523014227j:plain

数年前、サッカーのコーチをしていた時に相手コーチに怒られたことがある。

実力差のある相手にボコボコに点を取られて、子供達が完全に戦うことをやめた瞬間があった。ハーフタイムに人生で初めて子供達に怒鳴り散らした。子供達に「悔しくないのか!全部出し切っての結果がこれなのか?自分たちより上手い相手の方が走ってるし戦ってるじゃないか!」っと

数人の子供には手で押し飛ばして気持ちを刺激した。みんな号泣しながらピッチに走って行った。

 

コーチと選手だけの世界

f:id:keikun028:20150523014358j:plain

その時、どこかのチームのコーチから言われた言葉は「選手よりコーチが熱くなってどうするんですか!」という声だった。しばらく横で説教された記憶があるが無視した。サッカーの本質を伝える大事な役目が自分にはあったからだ。なにより俺と子供達だけの大事な試合だった。なにかが間違っていようが誰にも邪魔されたくない気持ちでいっぱいだった。もちろん、いまになっても当時のことは後悔していない。その試合の後半、見違える姿を子供達はみせてくれたし、それからの彼らは見違えるように成長した。

僕たち大人も子供もあるがままの自分を示すということ

f:id:keikun028:20150523014431j:plain

サッカーで大事なのは自分の気持ちを解放することに他ならない。選手も、もちろんコーチもチームに関わるみんなで戦わなければならない!

チームを作ることは選手とコーチの関係がなにより大切であり、その他が介入する余地はない。その分、サッカーの指導者は自分を解放する術を持っていないといけないと思う。

誰がなんと言おうと俺はこうであるということを示さねばならい。一人の人間としてあるがままの自分すべてを解放できるのが真の指導者でなければいけないと思うし自分もそうありたいと思う。これは指導者としてよりも一人の人間としての気持ちでもある。自分のすべてをさらけ出してはじめて選手とともに感動を共有できるんだと思う。

 

サッカーの本質を追求する旅は続く

 

”サッカーは足でやる”という感覚から自由になることからはじまる

f:id:keikun028:20150521115331j:plain

 

サッカーは足でやるんじゃない!身体で表現するんだ!

日本でサッカーを始める人の多くはサッカーは足でやるスポーツだと思っているのではないだろうか。しかし、サッカーは足で扱うという感覚から自由にならなければならない。このネイマールのドリブルを見て欲しい。足でプレーしているというよりも身体全体の感覚だ。身体全体で相手を感じ感覚的に相手の逆をとっている。ボールに捕らわれてもダメだし”足”に捕らわれてもダメだ。

 

サッカーは踊りでありどちらも”感じる”ことからはじまる

私が言いたいのはみんなネイマールのようになれ!と言いたいのではなくサッカーはボールと身体の感覚がとても大切であるということである。サッカーも踊りも理屈よりも身体で感じることからはじまる。”考える”ことが重要視されすぎると”感じる”ことや”感覚”がないがしろにされたりする。これは子供に限らず大人もそうだ。言葉で表現できることなんてたかがしれているし、本当に大切なことは言葉にできないことの方が圧倒的に多い。サッカー選手は言葉にできない”なにか”を表現する人でもある。

 

サッカーは喜びであり、喜びは言葉ではなく身体で表現される

 

 ゴールを決めた後に”喜ぶこと”を表現させる練習を見たことがあるけれども、あの光景に対する違和感は”感情表現”することが上手くできない国民性(自分も含め)と大好きなサッカーの本質に距離があると感じてしまうことだ。自分も感情表現が上手くできないコンプレックスがある。本当に伝えたいことはサッカーは超楽しいということであり、喜びや苦しみの感情の表現であり、情熱であり愛である。それは言葉で表現する以上に伝わらなければならないことなのに上手く伝えられないもどかしさでしかない。サッカーの魅力を伝えるにはもっともっと自分が楽しむことが大切だ。

 

 

サッカーとは”絵”を描くことである

f:id:keikun028:20200802090852j:plain



真実とは”ありのままに存在するもの”

インサイドキックの蹴り方とかシュートの打ち方とかを一生懸命教えている若いコーチがいて、それを外から輝く目で見ているママさんたち。そんな風景を微笑ましく思えない私はただのひねくれ者なのかもしれない。
 
ちゃんと”教えてくれる人”と”しっかり教わる子供”。その設定だけが健全のようにみえるけれども、そこに真実はない。市場で求められているのは、誰もが健全だと思える光景だけで、中身なんて空っぽの場合が多い。
 
サッカーのコーチが世の中に求められているのはそんな健全な光景だけである。しかしサッカーはそんなもの求めていない。サッカーの本質をしっかり学び理解しなければ、世の中の嘘に振り回されるだけだ。
 
世の中を作っているのは人だ。人は綺麗なところしかみようとしない。真実は美しさと醜さを内包している。人は真実の醜さを削り取って正しいものに作り変えるが、真実の美しさも失っていることに気づいていない。
 
真実とは”ありのままに存在するもの”だ。
サッカーとはなんだろうか。
サッカーとはボールをゴールに入れることを競い合うゲームであり、それ以上でもそれ以下でもない。

自分で絵を描くこと

南米のユルさと日本の精巧さ、その2つの文化に触れて感じるのは勤勉さが仇になっている場合があるということだ。
日本人は勤勉である。勤勉な日本人は多くの本を読みセミナーや講演会に足を運ぶことに時間を費やす。しかし、次第に自分でものを考える力を失っていく。
f:id:keikun028:20150520110746j:plain

 
期待は自分自身に寄せるものであって、他人に寄せた瞬間に甘えになる。誰かの考えや思想に真実はない。本や情報というのは絵である。絵を見て、自分がなにを感じたかがすべてであり、絵に真実はない。

 

 
自分にとってサッカーという”絵”はなんなのか、自分の”絵”を描かなければならない。
 
 サッカーの本質を追求する旅は続く