亘崇詞の著書「アルゼンチンサッカーの思考力」より引用↓
個性の塊のようなリケルメは、ピッチの内外で伝説を残しています。
アルゼンチンのサッカー界には徒弟制度のような気質が残っていて、後輩が先輩に馴れ馴れしく口をきこうものなら嫌われてしまいます。
そんなある日、少し調子に乗った若手が、「リケルメさんにとって、サッカーとは何ですか?」とつまらないことを聞いたのです。
すると彼は、面倒くさそうな顔で吐き捨てました。
「サッカーなんてのはなあ、敵を全員抜き去って枠の中に決めりゃあいいんだ」
その瞬間、一堂「おお!」と声にならない声を上げました。
若手たちは口々に言います。
「リケルメ先輩の言うとおりだ。俺たちはサッカーの本質を忘れていた」
「そうだ、俺たちは難しく考えすぎていた。サッカーの原点に立ち帰らなければ」
サッカーは遊びである
リケルメをはじめて観た時、衝撃を受けた。
トヨタカップでレアル・マドリード相手にリケルメはピッチで異様な輝き方をしていた。世界屈指のボールハンター、マケレレのマークをいなし、弄び、ボールを晒し、翻弄した。まるで闘牛士のように。
Jリーグでは観られない光景、いや、欧州のサッカーをテレビでよく観ていたけれど、リケルメのようなプレーは観たことがなかった。
それほど非常識的なプレーだった。
システムや決まりごとを学習することばかり頭に入っていたけれど、リケルメのプレーを見て原点に戻れた心地がした。
ボールを奪われなければ、いつまで持っていてもいい。
そう言わんばかりのプレーを堂々と披露してくれた。
サッカーとはなにか
サッカーとは本来、遊びなんですね。
ボールひとつあれば、どこでも遊べる遊びでした。
でも、いまは、そうではありません。
ボール遊び禁止の公園、学校の校庭も放課後にボールを蹴る子供たちの光景は少なくなりました。
サッカーをしたければ、サッカークラブやスクールに入らないといけません。
サッカーを遊べる機会、場所が本当に少なくなりました。
サッカークラブに入っても、コーチにしっかりと指導され、遊ばせてもらえません。
遊ばせてくれるクラブは知る限りでは少ない。
サッカーが習い事になれば、それはもう遊びではない。
子どもなのに、サッカーなのに、それが義務になってしまう。
果たしてそれはサッカーなのだろうか、とさえ思う。
サッカーという最高の遊びを、もっと気軽にできるようになったらいいなと思います。