佐伯夕利子さんの著書「本音で向き合う。自分を疑って進む 」より↓
自分で考えなさいという状況を作ると、それが無理な子、考えることができない選手が生まれる。なぜならば、つい昨日までユリコから常に「右だ」「左だよ」「そこでショート」と言われてきた。そんな環境で育ってきた選手たちは、実はすごく楽な状態でプレーしてきている。自分で考えなくていい。判断しなくて済む。
それなのにいきなり「自分で考えて」と言われる。右も左も言ってくれなくなったら、
ベンチを振り返って苛立ち始める。
「私は何をすればいいのか言ってよ」と文句を言ってきた選手を見た瞬間、「まさに私の被害者だったのだ」と納得した。一方的に答えを与えてきた選手はこうなってしまうのだ、と。ひとつの手応えだった。
あっという間に自分で考えるようになった選手がいた一方で、思考のメカニズムがストップしている者もいた。それは本人の責任ではなく、それまでにコーチから言われたことを上手にやってのけることを習得していたからだろう。その指示がなくなった瞬間に連乱するのも無理はなかった。
混乱する選手には、個人のプレーを切り取った動画を一緒に観ながら「あなたはどう考えていたの?」「次に同じ場面が出てきたら、どうだろう?何をする?」と対話した。ワン・オン・ワンの支援に時間を費やすことは、指導者としてやらなければならない。そういったことが私たちの中で明確になっていった。個別最適化の必要性を痛感した。
そのように、個人差はあったものの、選手は少しずつではあるが変わっていった。
先日、こんな記事を投稿しました↓
佐伯さんはスペインのビジャレアルでの指導でご経験されたことを振り返って学びを共有してくださいました。しかしながら私はスペインよりも日本の育成年代でよりこのような選手が自分で考えることをやめてしまう状態が、起こりやすいのではないかと感じています。
「競争闘争理論」の著者である河内さんの言葉を借りると下記の部分がそう思う理由です↓
私たちの場合、学校教育においても、事前に「正しい」回答が用意され(たとえ文学について学ぶ時であっても!)、それが”絶対的な"正義だと教えられる。勉強、そしてそのプロセスを測るテストとは、事前に用意された「正解」を記憶することに他ならず、「正しいことをすれば結果が出る」という思考態度を入念に叩き込まれる。このような教育は非常に競争的であると言え、決して闘争的ではない。
日本の学校教育を受け続けることによって、私たちはいつの間にか「疑う」ということを忘れてしまう。そういった教育を受けてきた人間は、サツカーのような「団体闘争」をプレーする時にも、とにかく「正しい」答えを事前に求めたがる。しかしサッカーは「正解を選択」するゲームではなく、「選択を正解」にするゲームなのである
少なくとも日本の教育を受けてきた多くの日本人は、正解を選択するという習慣が無意識についており、選択を正解にする習慣がない。選択を正解にするとはつまり、定められた正解がない中で、自分が思考して選択した行為の先を正解に変えていくというクリエイティブな思考態度のことです。
サッカーというスポーツの本質はまさにこの思考態度が求められるわけです。
冒頭にご紹介させていただいた佐伯さんの著書の引用にもあるように、子どもたちの思考習慣である「正解を選択する」から「選択を正解にする」にスイッチさせて、思考習慣を変えていくことから始めなければいけないと思います。
まさに我々大人である親、コーチ、指導者がこの前提に気づいて、子どもたちの思考を発展させるアプローチに変えていくことが大切なのではないかと思います。
上手な指導者もたくさんみてきましたが、全体で見るとまだまだマイノリティであり、それ故に多くの課題が残っているように思います。