河内一馬さんの著書「競争闘争理論」より引用↓
私たちの場合、学校教育においても、事前に「正しい」回答が用意され(たとえ文学について学ぶ時であっても!)、それが”絶対的な"正義だと教えられる。勉強、そしてそのプロセスを測るテストとは、事前に用意された「正解」を記憶することに他ならず、「正しいことをすれば結果が出る」という思考態度を入念に叩き込まれる。このような教育は非常に競争的であると言え、決して闘争的ではない。
日本の学校教育を受け続けることによって、私たちはいつの間にか「疑う」ということを忘れてしまう。そういった教育を受けてきた人間は、サツカーのような「団体闘争」をプレーする時にも、とにかく「正しい」答えを事前に求めたがる。しかしサッカーは「正解を選択」するゲームではなく、「選択を正解」にするゲームなのであるから、日本のテストのような思考態度では、本来サッカーというゲームをプレーすることはできない。その結果、私たちは自ら強引に用意した「正しい」方法、あるいは外国人のいう「正しい」やり方を疑ってこなかった。
私たちは正解を選択するゲームを学んできた
日本で教育を受け、サッカーをし、子どもたちにサッカーを教え、海外を旅して現地のローカルサッカーを体感し、日本のサッカーに必要なのは「サッカーの本質とは」を問うことであると考えてはじめたのがこのブログ「大人になってから学ぶサッカーの本質とは」。
河内氏の著書は、まさにサッカーというスポーツの本質を学び、考え直すきっかけになる内容なので、サッカーに興味のある方全員におすすめしたいのですが、今回お伝えしたいのは、私たちが認識しているサッカーというものは、私たちの教育や文化とつながっているということです。
振り返ってみると、学校でも、サッカーでも、正解を選択するような指導を受けてきた。私は運が良いことに、小学生の頃は余白のある環境を作ってくれたコーチにも出会いました。そのコーチのお陰で違和感に気が付きやすかったのかもしれません。
育成年代の現場に行けば、相変わらずおかしな指導は残ったままです。ハラスメントなどは減ってきていると感じますが、正解を選択させるような違和感のある指導など、サッカーの本質を捉えられていないと感じる局面は多い。これはサッカーの現場に問題があるというよりも、日本の教育とサッカーがつながっているからだと思います。それ故にサッカーの本質が適切に捉えられにくいように感じます。
サッカーは正解を選択するゲームではなく、選択を正解にするゲーム
これは人生にも通じます。人生に正解を選択するとう行為は不可能です。自分が選択し、それを正解にするアクションが非常に重要なわけです。
それを教育の過程で見失わせてしまうのは日本社会の課題であると私は思います。
サッカーという遊びが、いつのまにか正解を選択するゲームと化してしまうのは、日本の教育文化とつながっているから。でも、サッカーの本質を学び、自分の人生を自ら選び、自分なりの正解を出していくゲームに変えていくことができたなら、最高だなと思います。