自由に表現するためには意識の置き方に注意する
メッシを見てもネイマールを見ても、イニエスタを見てもロナウドを見ても、とてもリラックスして余裕がある。いっぱいいっぱいになる瞬間というのがない。
為末大さんの”意識の置き方”についての記事を読んで、とても納得してしまった。
”意識の置き方”が上手な人は少なくとも自由に表現できる余地がある。これは間違いない。
以下、為末さんの記事を読んで欲しい。
意識の置き方が上手な選手は、四肢に、それから外部環境のどこに意識を置くかを自由に選べる。体を一つのものとして意識することも、右手だけを意識して考えることもできる。また意識を上手に扱う上で大事なことは意識することを止めることができるという点だ。上達に意識は重要だと言われて、それは全くそうなのだけれど、いつでも自由に意識しないことができることとセットで機能する。
意識を置いたり、逸らしたりが自由にできる選手には、余裕が生まれる。モテる男子を見ていると余裕がある。それは意識を置くことも置かないこともでき、すくなくとも意識してしまってそれを止められないということがない。だから余裕があり、それがさらにその人をモテさせる。競技も余裕がある選手が相手を翻弄し、余計に相手はヒートアップし、その差は開く。
教えるより感じさせること
”意識の置き方”などということを教えることはできるのだろうか。
きっと難しいだろう。それは個人の感覚に依存するからだ。
誰もが違う感覚を持っている。感覚や感性が異なれば自分に入ってくるものも当然違う。やはり教えられるものではないだろう。
教えるのではなく、感じさせることが大事なのだ。
そしてその感じたことを表現できるようになるまで見守ることなのだ。
そこに至るアプローチは様々だ。教えるな=何もするな。ではない。
むしろ教えることよりもよっぽど神経を使う。それを私たちはどのように考えてどのような言葉でどのような振る舞いで刺激していくか。これに尽きる。
自然体でいることは子供よりも大人に求められているのかもしれない。
感性や感覚を大切にする人はいつも自然体だ。
考える力がなかったのではなく、考えるきっかけがなかった。答える力がなかったのではなく、聞かれたことがなかった。人生は本当に何で変わるかわからない。変わるのはただの自分の意識かもしれないが、人生はそうやって変わっていく。
— 為末 大 (@daijapan) 2015, 11月 24
唯一自分にできることは、今も常に何かを思い込んでいてそれに自分は気づいていないという前提に立とうとすることだろうか。
— 為末 大 (@daijapan) 2015, 11月 15
サッカーの本質を追求する旅はつづく…
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