辛口サッカー評論家として有名なセルジオ越後さん。
当ブログでも何度も取り上げている通り、私はセルジオさんが大好きですし尊敬しています。
日本にサッカーの本質を伝え続けている数少ない人だと思いますし、いつもセルジオさんの言葉からは愛情を感じます。
サッカーへの愛情、日本という国への愛情… それがなければリスクを追ってあんなに辛辣で本質を突いた意見はできないと思います。
今回はそんなセルジオ越後さんの残した言葉をご紹介します。
日本サッカー発展のヒントが詰まっていると思います。
スポンサードリンク
サッカーの本質とは?
練習をしたら巧くなるというのは間違い。ブラジルでは巧くなったら、練習をするようになる。
みんな勝ち負けだけでサッカーをやっていて、一つ一つのプレーを味わうということがなかった。蹴ると決めたら必ず蹴る、そんな融通の利かないプレーばかりで、フェイントをかける楽しさも、かけられる悔しさも知らない。
>>練習をしたら巧くなるというのは間違い。ブラジルでは巧くなったら、練習をするようになる 〜セルジオ越後氏の言葉に学ぶサッカーの本質〜
サッカーに興味を持たせる工夫が必要
「子どもの好きにさせよう」と、ものわかりのいい親御さんはよく言いますが、誤解もあるようです。興味を持たないから放置していいんだ、というのは、少し無責任です。無理強いはしない、けれど何とか興味をもたせる、持ち続けさせる努力や工夫は、しなければならない。それが親や指導者の責任です。
すべての子どもにサッカーの魅力を伝えるために
私がサッカー教室で指導するとき、必ずしも全員をサッカー好きの優秀な選手に育て上げようとは思いません。教えるのは、聞きにくる子どもだけでいいと思っています。
聞こうとしない子に、「なんでそっちを見てるんだ」と怒ったり、「前を向いて、行儀よくしていなさい」などと強制する必要はないと思います。
子どもは、いったん興味を持ったら、もうしつこいことこの上ない。そうなれば、多少きつく教えたり、ときにはしごいても、全部プラスになる。だから、聞きにきた子には「教える」、聞きにこない子とは「遊ぶ」。
これを原則にしています。釣りと同じで、針にかかるまで、興味を持つまで大人が待ってあげることが、小学生の段階ではいちばん大切だと思います。もちろん、高校生に同じ接し方はできません。
年齢によって、学生によって、教育の方法は変えて当然です。
いやなことも我慢してやり遂げる。こういうタフさを教え込んだり、覚えさせるのは、後のことです。また、自然に身につくものです。「今日は楽しかった」とか「明日またやろう」と、そういうムードで終われるかどうかを、私は私自身の採点基準にしています。
日本サッカーが発展していくためには、サッカーの面白さや魅力をしっかりと後世に伝えていくことが大切なのです。
我々、大人がしっかりとサッカーの本質と向き合い発信していくことがまずは重要なのだと思います。
セルジオ越後さんは日本全国へサッカー教室をして周られました。
日本で一番サッカーの本質を伝えてこられた方なのではないでしょうか。
その中で日本の教育の在り方に疑問を呈し、サッカーの本質を伝えるとともに教育の本質も発信し続けてこられました。
日本サッカーが発展するためには、これからの未来を担う子どもたちにいかにサッカーの本質を伝えていくかが大切なのです。
サッカーにスペースが必要なように子どもたちにもスペースが必要
サッカーでは、誰もいない空間のことを、『スペース』と呼んでいます。右から攻める、左から攻める、作戦はいろいろですが、敵・味方が密集している場所にパスを出すより、守備選手がいない、空いた場所を使うほうが、ずっとチャンスが生まれます。
「スペースを使う」とか「スペースを作り出す」といった表現をします。のびのびと、創造的なプレーをするためには、この「スペース」がカギになるんです。専門的な話になりかけましたが、今の子どもたちに必要なのは、まさにその「スペース」だと、私は思います。
幸いなことに、私自身は、今よりまだ貧しい時代のブラジルで育ちました。だから、タップリと「スペース」、つまり子どもとしての「空間」を与えられて育ちました。親は忙しく、とても私たちに構っている時間がなかったんですね。だから時代そのものが過保護を許してくれなかった。
それはおそらく日本も同じで、大方の大人が、私ほどでないにしても、今の子どもたちより、はるかに自由な「空間」を与えられて育ったのではないかと思うんです。
それを考えると、「今の子どもたちは、家の中に閉じこもって、外に行かない」などと、一方的に非難めいたため息をつくのは、つくほうが思慮不足、思いやり不足なのかもしれません。
私の子ども時代より、今は確かに便利ですが、狭い土地にひしめき合って暮らしている、プライバシーがないと大人たちが嘆いているのと同じように、子どもたちだって(これは物理的な広さではなく、精神的な意味で言うのですが)、心の自由スペースを相当狭められているのではないでしょうか。ブラジル時代を振り返ると、もちろん、不便な社会には不便なりの辛さはありましたが「ほうっておかれた」ことは、今思うと最高のプレゼントでした。
>>セルジオ越後の教育論 「創造教育のカギはスペースを与えること。放っておかれたことは、今思うと最高のプレゼントだった」
子どもの世界を尊重しなければならない
「最近子どもたちが外で遊ばなくなった。
家でテレビの前に座りっきりで」と、親は文句を言います。ところが外に出かけるときは、「宿題もしないで、どこに行くんだ」と怒られる。子どもも大変です。外に行っても、「路地で遊ぶな。公園へ行け」と、よそのおばさんに怒られる。
公園へ行くと、「危険だから、ここでサッカーをしないこと。」まるで、禁煙の立て札にきゅうきゅうとするお父さんみたいです。
大人は子どもがどうしてテレビゲームばかりしているかわかっていない。遊ぶ場所がない、遊び相手がいないことをわかってあげない。
>>【セルジオ越後の子育つ論】「自分はこう育てられたから」「世間はみなそうしてるから」で本当に良いの?
スポーツは義務ではない。好奇心、主体性を育むことが本質
管理されすぎると、子どもたちはすべての基準をそこで監督している大人の顔色に合わせるようになり、善悪の判断も、どこまで頑張ればいいのかも、いちいち大人の顔色を見ながら決めることになります。それでは、スポーツという、元来は豊富な社会経験であるべきはずの行為が、授業の延長、家庭教育の延長になってしまいます。それでは意味がありません。
子どものリズム、世界を尊重すること
子どもは、大人とは別の基準、別の速度で生きていることを知ってほしい、ということなんです。子どもたちは、大人とは別の世界を厳然と持って生きているんです。世の中がいくら変わっても、子どもたちが成長していくには、昔と同じだけの時間がかかるということです
>>セルジオ越後さんに学ぶサッカーの本質 〜子どものリズム、世界を尊重すること〜
子どもたちに本当に大切なことは何かを考えさせること
「自分たちの子どものころは、あんなことはしなかった。外で、もっとわんぱくに遊んでいた。家に閉じこもって、あんなネクラなことをするなんて」という、自分たちとの比較の上で、「よくないことだ」と決めつける人が多いんです。
彼らの生きる七十年、八十年は、自分たちのそれとは一致しない。彼らには、彼らの生き方、世の中があるのだということだけははっきり認識すべきだと思います。それを一から百まで、親の価値観、その時代の大人の感覚で押し切ろうとするから、無理が出る。ひずみが出る。親は自信をなくし、子どもは何が本当に大切なのかを、見失い始めていく。それが「過保護」ということ…
>>子どもは親のクローンではない。親の価値観を子どもに押しつけてはいけない
《関連記事》
>>サッカーは「教える」ではなく「感じさせる」 〜セルジオ越後〜
サッカーの本質を追求する旅はつづく…