「遊び」に対する情熱が冷めたとき、サッカーに対する情熱も失うことになるのかもしれない。優れたサッカー選手とは、ある意味子供であり大人でもある。
つまり、子供のように純粋にプレーを楽しみ、遊び、喜び、感覚的に、アドリブで、自由気ままに直感で、失敗を恐れず、わがままなサッカーをするからである。同時に、大人のように狡猾にプレーを考え構築し、冷静かつ論理的に、決め事を守り、組織の中の一人として、他の選手に迷惑をかけず共通理解をもったサッカーをするからである。
<新サッカー論より引用>
中南米で目にしたわがままなプレーヤーたち
中南米を旅していたとき、グアテマラ、ホンジュラス、メキシコの田舎町で繰り広げられるローカルサッカーには、わがままなプレーヤーが多かった。
年齢もレベルも関係なく、大人でも子供も、必ず何人かわがままな名物プレーヤーがいた。(彼らにとっては日常なので、名物ではないかもしれないが)
私は日本という国で大学卒業までサッカーをしてきて、このようなわがままなプレーヤーたちを見ることは歳を重ねるにつれてなくなっていきました。日本ではわがままはいけないことだとされてきた。
しかし、彼らは自分本位でプレーを判断し、時に大きなミスをするけれど、時に最高のプレーも魅せる。それは普通のプレーヤーが魅せることのできないプレーだったりもする。
ただ、彼らはわがままだ。わがままだけれど、許容されている。
なんだろう、その個性が自然に受け入れられている。もちろん中南米にも真面目なプレーヤーはいる。時に彼らはぶつかることもある。それでもお互いに仕方のないやつだと排除しない。
そんな子供のような子供もいれば、子供のような大人もいた。
日本のサッカーはわがままなプレーヤーは許容されにくい
日本でサッカーをしていると、ルールや規則が最上位にくるため、それを乱すわがままは許容されにくい。ジュニア年代では、厳しく教育されていく。その過程でわがままなプレーヤーは淘汰される。
サッカーはわがままではいけないと。集団を乱す存在は許容され難い。
私たちの社会はそんな社会規範をサッカーにも持ち込んでいる。
サッカーは社会とつながっている。だからサッカーを語る時にサッカーだけでは足りない。
わがままであることをどのように扱うかというのは、サッカーというスポーツではとても大切なことなのではないかと思う。
日本では突出した個が出てきにくい、そのように言われ続けてきた。
なぜだろう。世界的なストライカー、ドリブラーが出てきにくい。
なぜなら、ストライカーやドリブラーはインテリジェンス以上にわがままが求められるからかもしれない。
日本にも強烈な個性は存在する、しかしサッカーが、社会が排除する
サッカー人生をふりかえってみると、わがままなプレーヤーは子供の頃にたくさんいた。けれど、彼らはサッカーを続けなかった。許容されなかったからだろうと今になって思う。彼らの中に、世界的なストライカーやドリブラー候補がいたのかもしれない。
わがままが許され、わがままさを上手くサッカーに組み込めるような土壌があったなら、その寛容性が社会にあったのなら、魅力的なサッカー選手は日本にも生まれうる。
これはサッカーに限らず、日本には無数の才能が活かされずに、芽を出さずに、社会規範に潰されてきたようにも思う。
社会はサッカーにアジャストしない。しかしながらサッカーは社会の影響を多分に受ける。サッカーと社会の繋がりを理解し、サッカーをどのように考察し、向き合うか、サッカー人に問われているのはこのようなことなのではないだろうかと最近強く思う。
システムや理論、それ以前に理解すべきこと。その本質を忘れないようにしたい。