遊びたいんじゃない、表現したいんだ
グアテマラの古都アンティグアのウナプー地区に住んでいた時のこと。
いつものように子供達が迎えにくる。
「Vamos a la cancha KEI!」(サッカーしに行くよ!ケイ!)
家を出てすぐの狭い路地はいつでも遊び場になり、靴でゴールをつくって裸足で即席のミニゲームをすることもあった。いつも途中で子供どうしのケンカになって試合終了になる。そんな永遠に勝負のつかない試合が毎日狭い路地で行われていた。
サッカーをするときだけ集まってくる近所の子たち。普段はそんなに仲良くないけど、サッカーをやってると自然と集まって一緒にボールを蹴る仲間になる。そんな光景をよく目にした。彼らにとってサッカーは自己表現の時間だったのだ。誰にもうるさく言われない、思う存分自分を表現できるのがサッカーだったのだ。
彼らは決して上手くない。日本の子供達の方が全然上手い。でも、日本の子供達より圧倒的に表現する。全身で表現し、内に秘めた感情を惜しげも無く表現する。
それは、上手さとか、テクニックを凌駕するものだ。
彼らは「遊びたいんじゃない、表現したいんだ!」
私は彼らから大切なことを教わった。
生きるということは表現することだ
My Colummistで書かせて頂いたコラムから引用
私はブラジルやアルゼンチンの子どもたちの圧倒的な表現力、自分を解放する姿に感動してしまいました。一方で日本の子どもたちの制御された姿、飼いならされた姿を見て、これはまるで私たち大人とおんなじじゃないかと思ったのです。 社会人になって常識に支配され、世間から浮かないように必死に自分を殺す毎日。自分の感情を押し殺すことが普通の社会に生きていると、子どもたちもそんな大人がつくった「普通」の社会に適応するための教育を受けることになってしまいます。 私は南米の子どもたちの圧倒的な表現力を見て、「これでいいじゃないか」と思いました。 サッカーも、人生も自分を上手に表現できなきゃおもしろくならないのです。もっともっと、自分を表現していい。
サッカーも人生も創造していくもの
Books&Appsさんで書かせて頂いているコラムから引用
サッカーを子供に教える上で大切なことは形ではなく中身だ。形を一生懸命教える指導者が多すぎる。 どんなに戦術を理解していても、どんなにサッカーが上手くても、どんなに頭が良くても、目の前の子供の本質を見ることができなければ、指導者と呼ぶにはあまりにもおこがましいと私は思う。 我々は新しいものを受け入れる柔らかさがなければならない。子供は常に想像し、創造しようとしている。サッカーを教えるということは、その子の持つポテンシャルを引き出すということだ。もっと想像させ、創造させねばならない。
私は生きる上で大切なことは自分を表現することなのだと思う。
お金を稼ぐために生きるのではなく、自分を表現するために生きたいと思う。
誰かの為に生きるのではなく、自分のために生きたいと思う。
自分の為に生き切った結果、誰かの為になるのだと思う。
自分を殺して誰かの為に生きることはできない。
これはサッカーも人生も同じだ。
サッカーの本質を追求する旅はつづく…
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サッカーWEBマガジン「Qoly」さんで書かせてもらってるコラム
知と知を繋ぐメディア「Books&Apps」さんで書かせてもらってるコラム
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