大人になってから学ぶサッカーの本質とは

サッカーの本質を追求するWebマガジン 考えるよりも感じることを大切に 美しさとは何かを感じる心を大切に 大切なものを失わない為に書き綴る                    ※当ブログはプロモーションが含まれています

上手い選手が偉くて、実績がある子が優遇される構造

follow us in feedly

「サッカーって、階級社会じゃないですか」

そう口にしたのは、反抗的な態度の子ではなかった。

どこか冷めているわけでも、斜に構えているわけでもない。

むしろ落ち着いていて、自分の見ている現実を、淡々と説明するように話してくれた。

公園サッカーで出会った中学生男子だった。

「サッカーが嫌いになったわけじゃないんです。
ただ、そこに自分の居場所があるとは思えなくなっただけで」

上手い選手が偉くて、実績がある子が優遇される。

それって、当たり前のことなんだろうか?

私たち大人は、いつからだろう。

「競争があるから成長する」

「実力主義だから仕方ない」

そんな言葉を“正論”として口にするようになったのは。

もちろん、競争は悪じゃない。

でも、競争がどう設計されているのか、そのあとの関わりがどうあるかで、

サッカーという場の意味は、まったく違うものになる。

「サッカーが上手い=偉い」

そんな序列を、子どもたちが“勝手に”作っているのではない。

多くの場合、それは指導者が無意識に作り出してしまっている構造なんだ。

それが、良かれと思ってであっても。

試合に出れないのであれば、そこにその子がいる意味をつくる、それもコーチ(指導者)の役割。

ボールが回ってこない子

試合に出られない子

ずっと端っこにいる子

その子たちは、こう思い始める。

「自分が悪いんだ」

「ここには、自分の居場所はないんだ」

「頑張っても意味がないのかもしれない」

誰かが怒鳴っているわけじゃない。

暴力もない。暴言もない。

だけど、そこにはたしかに「見えない排除」がある。

本当に必要な“ヒエラルキー”なんてあるのか?

私は思う。

強くなることと、育つことは違う。

試合に勝つことと、人として成長することは、似ているようで全然違う。

もし、誰かがその場に「いないこと」になってしまう構造があるなら、

それは私たち大人が見直すべきサインだ。

「こうしなければならない」

「それが当たり前」

そんな言葉の前で、子どもたちが自分の存在を縮こまらせてしまっているのだとしたら、

私たちは、大人として、それを“そのまま”にしてはいけない。

サッカーは、上手い下手の前に「一緒にやる遊び」だったはずだ

サッカーって、そもそもは遊びだった。

誰が上手いとか、誰が偉いとか、そういうことじゃなくて、

誰かと一緒にボールを追いかける、ただそれだけの時間に夢中になることが楽しかった。

そこに、大人の都合や“勝ち負けの正しさ”が入り込みすぎると、

その子の大切な“居場所”を壊してしまう。

だから私たち大人は、忘れてはいけない。

「誰と一緒にサッカーをしたいか」という問いを、

「誰がうまいか」という評価よりも大切にすることを。

私たちにできることは、たぶん、想像より多い

たとえば、

  • 試合中、孤立している子を見つけたら、声をかけてみる
  • ボールが全員に触れるように練習を設計してみる
  • ベンチにいる理由を、その子にちゃんと説明してみる
  • 「結果」ではなく、「関わり」を見つめてみる

そんな、小さな行動の積み重ねが、

子どもたちの目に映る「サッカーという世界」の形を、少しずつ変えていく。

もう一度書いておく。

試合に出れないのであれば、そこにその子がいる意味をつくる、それもコーチ(指導者)の役割。

子どもがその場所に“いる意味”を見失わないようにすること。

「自分なんて…」と思わせないこと。

サッカーが“上手な子のためだけの場”ではなく、

“その子がそこにいていいと感じられる場”であること。

大人にできることは、きっと、それほど多くない。

でも、見ようとするかどうか、声をかけるかどうか、立ち止まるかどうか、その違いが、未来を変えていく。

子どもは、上手いか下手かだけで、

自分の価値を測ろうとは思っていない。

 

でも、大人のまなざしが「それ」ばかりを見ていると、

子どもも、そう信じるようになってしまう。

それだけは、私たちが変えていこう。

note.com