
オシムさんは言った。
「サッカーも人生も同じだ」と。
この言葉を、ただの比喩として聞き流すのは簡単だ。
けれど実際に、その言葉の重みを身体で感じて生きている人がいる。
元日本代表・羽生直剛さんも、その一人だ。
「踏ん張るところは頑張りながら、時に思い切って自分で行かないとゴールなんて生まれない」
これはピッチ上の話でもあり、社会に出た後の人生の話でもある。
どちらにも通じる、オシムの哲学だった。
書籍「オシムの遺産」にはオシムさんと関わった人たちのエピソードがたくさん書かれている。サッカーを通じて人の人生をこんなにも動かすオシムさんという人間の哲学と偉大さを感じずにはいられない。
思考するサッカーが人生の土台になる
オシムさんは選手に「自由な発想」を求めた。
けれどそれは、自由に好き勝手やっていいという意味ではない。
自分で考え、判断し、責任を持つ。
自律した選手による“思考するサッカー”を目指していた。
それはまさに、企業や社会に置き換えれば、
「社員が自分の頭で考え、判断し、行動して価値を生み出す」文化。
指示待ちではなく、自ら動くこと。
失敗の可能性があっても、リスクをとって挑戦すること。
その先にこそ、意味のある“ゴール”がある。
日本社会が失いかけているもの
羽生さんが語るように、
今の日本の企業文化は「リスクを避ける」傾向が強い。
意思決定が遅れ、挑戦を恐れ、現状維持を選ぶ。
それが日本経済の衰退の一因になっているとも言われる。
「今、リスクを冒してる最中ですね?」
「まさしくそう!」と羽生さんは笑う。
これは、かつてオシムのもとで自分の頭で考え、決断し、リスクを取ってプレーした経
験が、そのまま社会での行動原理として生きている証だ。
オシムの哲学は「人間の尊厳」を大切にしていた
オシムさんのチームには、決められた枠があってないようなものだった。
ポジションに縛られない柔軟さ。
誰かのひらめきがプレーに反映される自由さ。
それでいて、全員がチームのために動く献身性。
それは「戦術」ではなく、人間観そのものだった。
「ポジションなんてあるようでないし。自主性に任せるっていうか。」
そうやって選手を信じる。
プレーの中で思考させ、失敗から学ばせる。
そこには人間の尊厳を守る指導者としての姿勢があった。
オシムの教えを、社会にも還元する
羽生さんは語る。
「サッカーも人生も一緒だ、なんて言った監督はオシムさんしかいなかった」
「そのフィロソフィーを、セカンドキャリアの中で伝えていくことが僕のチャレンジ」
ピッチの中だけで完結しない指導。
選手として終わった後も、心に残り続ける教え。
その価値は、サッカーを知らない人にとっても、人生の指針になり得るものだ。
だからこそ、オシムの哲学を社会に還元していくことには意味がある。
サッカーの中にある“生きる力”を、もっと広く共有していくこと。
それが、これからの教育や組織づくりのヒントになると信じている。
オシムはサッカーも人生も同じだと言い続けた。 「踏ん張るところは頑張りながら、時に思い切って自分で行かないとゴールなんて生まれないっていう感覚を教えてもらった。それを一般社会でもやること、これからもそのマインドでいることが僕の生きるモチベーションなんです」
リスクを冒さない企業文化は、昨今表面化した日本経済衰退の一因に挙げられる。今はリスクを犯してる最中ですね?
と羽生に問えば「まさしくそう!」と笑顔で答えた。 「オシムさんに、サッカーも人生も一緒でしたよって報告したいんですよ」
オシムは選手に自由な発想を求めながら「選手たちの発想で勝っていく」ことを徹底した。このことは企業経営で言えば「フォロワー(社員)のアイディアで利益を生みだす」ということになる。 「オシムさんのやり方って、人間の尊厳みたいなものを重視したうえで成り立っている。ポジションなんてあるようでないし。自主性に任せるっていうか。